閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

228 下る

 起き出して時計を見ると8時半くらゐだつた。ちよいと寝過したかと思ひながら、ネスカフェに牛乳を入れて2はい。トーストとうで玉子。それからマカロニ・サラドとハム(2枚)で朝めしをしたためてから、エコーを吹かす。吹かしながら、取り散らかした本を棚にしまふ。

 とんかつ(大根おろし檸檬醤油)と焼賣(辛子醤油)をつまみに、アサヒスーパードライを少し。寄せ鍋のおだし(前夜がさうだつたのだ)で中華麺を炊いたのを啜り込む。お腹がくちくなつたので、落ち着くまで待つて、家を出る。ヱビス・ビールを1本持たしてくれたのは嬉しいが、母親がそれをビニル袋に入れて

「開ける時はこれを使ひなさい」

と云つたから、苦笑ひした。おれはどこまで子供かねと云ふと

「子供やンか」

あつさりと切り返されたから、有り難くビニル袋入のヱビス・ビールを頂くとした。

 阪急京都線上新庄驛から準急で梅田驛。そこから旧國鐵大阪驛で新幹線のぞみ號の指定席を取らうとしたら悉く満席。ひかり號かこだま號を使ふのも癪なので…何しろ東下は遊びではない…、半時間ほど待てばいいよ、新大阪驛始發ののぞみ號の自由席に乗らうと決めた。中古カメラ屋を覗いて、使ひ捨てカメラ用のカヴァ(消費税込み1,800円)を買ひ、在來線で新大阪驛まで動いて、そこで念の為にサンドウィッチとキリンの一番搾りを買つた。何がどうなつて念の為かは判らない。

 新大阪驛の新幹線27番プラットホームから發車するのぞみ號に乗らうと思つて、上つてみると何だか空いてゐる風に見える。あれと思つたが、そこは指定席の乗車位置なのだから当り前である。自由席の乗車位置まで行くと、そこだけ既に混雑してゐてうんざりした。乗れなければ乗れないで仕方ないから、更に半時間後のに乗ればよいかと考へたが幸ひにうまく坐れた。發車は定刻からざつと2分遅れ。この程度なら遅れとは呼べない。

 混んでゐる。通路やデッキにも立つひとがゐてこちらは坐つてゐるから大変だなあと思ふだけである。車輌の出入口近くにも立つひとがゐて、そちらは手洗ひ側だから、他のひとが通る。その中のおつさんが、ひとが通る度に、迷惑さうな顔つきになつてゐた。そんなら1本遅らせればいいのにと、無責任に考へた。さうしたら京都驛から白人の爺さんが乗つてきた。東京行きの新幹線では京都驛を過ぎてから麦酒を飲むことに決めてゐて、既に一番搾りとサンドウィッチは用意してある。といふか、開けてある。こまつた。

 兎に角麦酒とサンドウィッチに手をつけ、手をつけながら考へた。ここからの停車驛は名古屋に新横浜、そして品川である。名古屋から新横浜はきつと車内が混雑する。こちらとしては坐つて東京まで辿り着きたい。併し相手は年寄りである。外國人である。日本式の敬老の態度を見せるべきではあるまいか。迷ひに迷つた。取敢ず飲食の間は飲食だから、勘弁してもらはう。さう考へると落ち着かない。うまい筈の一番搾りも索然と感じられる。迷惑な爺さんだとも思つたが、文句を云ふわけにもゆかない。

 それで度胸を決めて席を譲らうと思つた。根拠もなく、英語圏ではなからうと感じたから、そつと袖を叩いて、坐りなさいと身振りで示したら、爺さんも大きな身振りでこちらを押し留めて

「No, Thank You」

どこで降りるか知らんが、無理はいけない。坐りなさいよ…とは日本語ならさらさら云へるけれど、英語ですら翻訳して喋るのは無理だつたから、改めておとなしく坐つた。非常に照れ臭くて、また文句を云ひたくなつたが、たれへの文句なのだらうか。但し正直なところ、立たなくてもいいのかと安心もした。それなのでヱビス・ビールを開けた。ビニル袋の中で開けたら、泡が溢れてきたから、母親の判断は正しかつたと感謝した。

 名古屋驛で乗り降りがあつて、爺さんには連れがゐると判つた。おそろしく背の高い男性で、爺さんに“papa”と呼び掛けたから伜だらう。ローマの教皇猊下も“Papa”と呼ばれるさうだが、猊下枢機卿には見えない。伜はジャージを履いてゐるのに不細工でなく、腹立たしい。親子の会話を聞くともなしに聞くと、何を云つてゐるかはさて措いて、明らかに英語ではない。暫くして、どうやらスペインかポルトガルか、イベリア人なのだらうと見当をつけた。確かめてはゐないから、外れでも責任は持てない。

 途中、うつらうつらしてゐると、のぞみ號は浜松を過ぎ、掛川を過ぎ、三島を過ぎ、熱海を過ぎて、この辺りから戻つてきたといふ気分になる。気が早いと云はれさうだが、熱海には友人の勤める会社の保養所があり、何べんか泊りもしてゐる縁で身近に感じられる。尤も熱海の夜はまつたく知らない。温泉地のスナックなんて、面白さうなんだがなあと思つてゐるうち、小田原まで過ぎて車内が何となく、ざはめいた感じになつた。品川驛で降りるひとが多いのだらう。さう云へば窓外に町灯りが目立つてもきて、東京驛への着到はほぼ定刻。降りてから車内では喫へなかつたエコーを1本。中央線の快速に乗り換へて中野驛へ。晩めしを済まさうといふ算段である。どこにするか少し考へ、[海賊船]に決める。

 えらく賑つてゐて、大丈夫か知らと覗くと、ひとり分の席が空いてゐたから潜り込んだ。先客は顔見知り計りで安心する。黒糖焼酎の水割りをお任せで。“まんこい”を出してくれた。つき出しは豆腐と餃子と大根のソップ仕立てで。柚子や辣油、七味唐辛子で食べる。熱くてうまい。たつぷり盛られてゐるから、十分食事になる。お代りは矢張り水割りで“高倉”を駄弁を弄しながら飲む。序でにチーズを註文。どんなわけだか、八ツ橋が添へられてゐた。親と飲む麦酒や旧友と飲むヰスキィも美味いが、ひとりなのかどうなのか判らない場所で飲む焼酎も美味いものだと思ふ。“あじゃ”の水割りを飲み干して…さうだ、かう書くとえらい早さだと誤解されかねないが、莫迦話が忙しかつた所為もあつて、實にゆつくりした飲み方だつた。それで満足した。店を出て、下つたなあと思つた。