閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

229 スタイル

 先づ[224 オートフォーカス]にざつと、目を通して頂くのがいいと思ふ。そこではミノルタα‐70でフヰルム一眼レフの小さなシステムを組まうかなと書いた。實行に移すかどうかは別…半ば以上は冗談である。一ぺん書いたことを(冗談ではあるけれど)短期間で引つ繰り返すのは、我ながらどんな態度かとも思はれるのだが、さういふことを気にしてまた点検を始めると、カメラに限らず、この手帖のひよつとして半分近くの話題を削る必要に迫られかねない。なので笑つて誤魔化すとする。

 大坂の本棚に『季刊 クラシックカメラ』の第8号(2000年)があつた。特集はペンタックス。中身はよくある“クラッシックなペンタックス”の紹介やレンズについての蘊蓄で、何と云ふこともないのだが、52ページから53ページに、植田正治へのインタヴューが載つてゐた。植田が当時使つてゐたのがペンタックスのMZ‐3だつた。發賣は1997年。このカメラは2005年頃に販賣が終つてゐるから、インタヴュー当時は現行機種。これだけならふーんで済ませてもいいが、この寫眞家は1913年…大正2年生れである。同年にロバート・キャパも生れ、また徳川慶喜(元征夷大将軍は寫眞好きでもあつたらしい)が死去してもゐる。序でに獨逸の片田舎で映画用35ミリ・フヰルムを転用したごく小さなカメラが試作されたのも同じ年。この試作品…“バルナックのカメラ”は12年後、ライカの名前で製品化される。

 大雑把に云ふと、後年Ⅰ型と呼ばれるこのライカが世に出た1925年…大正14年が、21世紀初頭まで續く35ミリ・フヰルムを使ふカメラの始りと考へてよく、ペンタックスも例外ではない。尤もその登場は1952年(昭和27年)で、随分と遅い。國産カメラ(この場合は寫眞機の方がしつくりくるだらうか)の歴史をいちいち遡るときりがなくなるから、そこは省略する。ペンタックス…当時は旭光學…の立上りが遅くなつた理由は簡単で、ライカ式の距離計連動式カメラに手を出さなかつたからである。以下は伝説なので、その分は差引きしてもらひたいが、カメラ…いや寫眞機を作らうと決めた時、当時の社長が

「併し他所さまがお客を持つてゐるところに、踏み込むわけにはゆかない」

と云つたのだといふ。意既に他社が顧客を持つてゐる、距離計連動式の寫眞機は作れないよ。この逸話を紹介した本の筆者は、りつぱな態度だと褒めてゐた。誤りではないと思ふ。古風な商賣の義理立ての気分がなかつたとは云はない。云ひはしないが、同時に既に市場が出來てゐる距離計連動式の寫眞機に参入しても勝ちみは薄いといふ現實的な判断もあつただらう。

 旭光學が寫眞機製造を目論みだした頃のライカはⅢfで、設計者は

「コピーなら、作れる」

と思つてゐたにちがひない。同時にライカM3の登場…これは1954年…を予見してゐた筈はないとして(だとしたら先發各社の面目は丸潰れである)、苦戰が見えてゐる方向を目指す必要はないと考へたとしても不思議ではない。最初から一眼レフを撰んだのはそれやこれやが積み重なつた博奕だつたと思はれる。結論を云ふと、旭光學はその博奕に勝つた。M3は、眞似をするとかどうとか、考へるのを諦めさせる出來だつた。日本光學が大慌てでSPにミラーを組み込んだ機種を出したのは1959年。詰りFである。同じ年、ペンタックスはS2で最初のヒットを飛ばした。

「最初の判断は、正しかつた」

少なくとも1980年頃までは、さう思つてゐた筈だし、またさう思つて不思議でもなかつた。

 オートフォーカスへの移行に失敗つた。ミノルタのα‐7000が登場したのは1985年。ペンタックスは2年遅れでSFXを出したが、率直なところ、まつたく感心出來ないスタイリング(ことにレンズの出來がひどかつた)で、どうもこれが惡かつたのではないか。この後、高度に電子化を進めたZへと路線を進め…いや有り体に云つて、迷走を續けた。当時はニコンキヤノンミノルタも、フラグシップ機と中級機とエントリー機といふ階層を作つてゐて、その階級制度をキヤノンは巧妙に用ゐ、ミノルタは下手ではなく、ニコンは下手だつたが、ペンタックスは繰返すと迷走であつた。要はα7000を目の当りにした後

「うちはかういふ姿で」

と考への纏まらないままに出したのがSFXで、その後のZも含めた建て増しと改築が10年近く續く。何を考へてゐたのか、よく解らない。

 1995年にMZ‐5といふ機種が出た。S2やMX、或はLXが連想される。その時は、原点回帰を謳つた記憶がある。ただそれはどうも表向きで

「何をどうすればいいのか、判らなくなつた」

結果、先祖返り…クラッシックなスタイルに辿り着いたのではなからうか。少なくともこれが正しいといふ確信を持てなかつたのは、MZ名の最高級機種として出したMZ‐Sのスタイルを思ひ浮べれば、間接的な證拠になる。實際、MZ‐5のスタイルを受け継いだのは、改良したMZ‐5NとMZ‐3だけ(特殊モデルと呼べるMZ‐Mはあるが)であつた。但しその迷つた結果は惡くなかつたとも云はなくては、ペンタックスに気の毒でもあらう。シャッター速度と絞り値を共にダイヤルで制禦出來るオートフォーカス一眼レフは意外なほどに数が少ない。わたしのやうな素人なら、カメラ任せが(露光としては)好もしからうと思はれるが、プロフェッショナルはカメラ任せと自分の判断をシームレスに使へる方が寧ろ便利な筈で、植田正治がMZ‐3を撰んだのは、その辺りが理由なのではないか。

 ここで少し念を押すと、デジタルカメラでさかんに云はれる“タッチパネルで直感的な操作が出來ます”は嘘である。パネルをぽちぽちしなくても、自分のカメラが今、どんな設定になつてゐるかが解る…目に見える方が遥かに“直感的”なんである。MZ‐3だと上から見た瞬間に、シャッター速度がどうで、絞り値がどうだと直ぐに解る。マニュアルフォーカスにしておけば、何メートルになつてゐるかも解つて、かう書けば、“直感的な”とはさういふことだと納得してもらへるだらう。植田くらゐの寫眞家には、非常に使ひ易いカメラだつたにちがひない。

 尤もかれがプロフェッショナルの寫眞家だつたかには、些か以上の疑念を感じる。寧ろ凝り性の数奇者…詰りアマチュアである…の撮つた寫眞が偶々、または結果的に商ひに転じたといつた印象がつよい。[閑文字手帖]がいつの間にやら本になつて、またそれなりに賣れてゐるやうなもので、判りにくい譬へになつたか知ら。譬へは兎も角、植田正治の寫眞をわたしは大きに好む。話がやうやく元に戻つてきた。

 ところでわたしの惡い癖は“形から入りたがる”ことで、中でも尊敬するたれかの眞似事は得意とするところでもある。この手帖でも多くの先達の眞似をしてゐるから、どこがたれの眞似か、閑でひまで仕方ない讀者諸嬢諸氏は、確かめてご覧なさい。そこで“形から入りたがる”惡癖に戻すと、今回の場合、植田正治のMZ‐3に痺れたんである。ペンタックスのMZ‐3でなく、“植田正治の”が大切。前出のインタヴューでは、77ミリをつけてゐると話し、レンズの交換は面倒だからあまりしないと續けてゐた。恰好いい。何がどう恰好いいと訊かれても、説明するのは六づかしいが、痺れるとはさういふ気分の筈で、わたしの頭からαはどこかに失せた。ミノルタには申し訳ない。

 以前にも触れた記憶があるのだが、気にせずに云ふと、手元にはペンタックスのレンズが2本、ある。SMC‐M28ミリF2.8と同50ミリF1.7で、外にトキナー28-105ミリもある。リコーの一眼レフ用に買つたので、いづれもマニュアルフォーカス。どのレンズもAポジションが無く、プログラム露光とシャッター速度優先露光は使へない。とは云へ絞り優先露光とマニュアル露光は出來るから、致命的な難点とは云ひにくい。詰りMZ‐3だけを入手すれば、直ぐに使へるわけで、中々具合が宜しい。流石に77ミリといふ妙な画角を使ひこなす自信はないから、そこはまあねと曖昧にして、同系列の43ミリなら、つけたままでもかまふまい。カメラ任せで撮る為に、ズームレンズの1本でも(廉価なので十分)考へる方法もあるだらうし、28ミリのオートフォーカス・レンズを探してもいい。勿論かういふスナップをする積りはなく、1枚1枚を考へながら惜しみながら撮る。どれだけ“形から入る”と云つたつて、名高いUeda-Chouは無理だけれど(あれは寫眞といふより絵画のセンスで撮られてゐると思ふ)、同じカメラを持てば、ひよつとしてと勘違ひくらゐはさしてもらひたい。