閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

259 とりから(“衣潤仮説”に拠る)

 普段は鶏の唐揚げと書くが、この稿では、とりからとする。取り立ててはつきりした理由があるのではなく、さういふ気分なのである。

 獨りで呑む夜(ここで云ふのは勿論、家の外での話)には註文しない。きらひだからではなく、持て余すのが最初から判つてゐるからである。序でに云ふと家の中でも作らない。揚げもの全般にいへるのだが、後の油をどうすればいいのか、困つて仕舞ふ。それにああいふ食べものは矢張り、プロフェッショナルに任す方が美味しくもある。併しプロフェッショナルに任したとりからは旨いけれど、獨りでは食べきれない。正確に云ふと食べきつたら、外のつまみを食べる余裕が無くなる。わたしは呑む場合、つまみを要する。坐つた時は空腹だから、脂つこいものが慾しいと思ふけれど、落ち着いてからは、焼き魚とか酢味噌和へとか、さういふつまみが好もしく思ふ。この空腹の状態から、空腹がが満たされるまでの時間が短い(詰り胃袋が小さい)ので、獨りで呑む夜にはとりからを註文しない。といふより註文しにくい。

 とりからそれ自体は好物である。お惣菜で買ふことがあれば、コンビニエンス・ストアで買ふこともある。大体は麦酒のつまみにしてゐて、定食では滅多に食べない。定食なら揚げ鶏の甘酢あんかけの方が好もしい。考へてみたら、折角の衣をわざわざ閏びらかすのは不思議な嗜好である。尤も甘酢あんかけの揚げ鶏は、甘酢を美味しくする材料だと見立てることも出來て、さう考へるなら不思議とは云へなくなる。但しそれは揚げ鶏の甘酢あんかけに限つた話で、とりからを定食…ごはんのおかずにしない不思議は残る。別に法ノ定ムルトコロ日本國民ハトリカラデゴハンヲ食ベルベカラズなんて條文があるわけではない。全日本定食屋協議会が標準定食を決める場合でも、とりからの定食は間違ひなく撰ばれるだらう。甘酢あんかけは六づかしい。それだけの食べものであるとわたしは認識してゐる。

 揚げものはごはんに似合はないのか知ら…そんな筈がないのは、とんかつやミンチカツ、鯵フライにコロッケに天麩羅が間接的に證明してゐる。といふことは、とりからはとんかつその他の揚げものスーパー・スターズと何かが異なつてゐて、そのちがひが決定的なのだらうと推察される。と書いた時、既に目処を立ててゐるので、それはソースを用ゐるか否かである。

 醤油。

 味つけぽん酢。

 天つゆに大根おろし

 マヨネィーズ。

 ウスター・ソース。

 タルタル・ソース。

 揚げものスーパー・スターズが眞価を発揮するには、さういふサポートが必要…といふより不可欠である。一方でとりからは、原則として、さういふサポートを必要としない(コンビニエンス・ストアで賣られるとりからにソースが添へられてゐないのは、間接的な證拠になるだらう)ここから考へるに、揚げものをごはんにあはす…定食にする場合、衣はある程度潤びるのが望ましい。少なくとも好ましいのではないかといふ推測乃至仮説が成り立つ。この仮説をここからは“衣潤仮説”と呼びます。恰好いいなあ。さうなると

檸檬の立場はどうなる。さあこれで“衣潤仮説”は成り立たないぞ」

と疑念或は異論が呈せられるかも知れない。とりからに檸檬を搾ることをわたしは一概に否定する者ではないが、それが一般的に認められる組合せでないのは、方々で議論がある点からはつきりしてゐる。詰りとりからに檸檬はひとつの食べ方、といふより寧ろ特例と看做すのが適切だらうと思はれて、“衣潤仮説”を揺るがすほどの指摘には到らないと云つておかう。そもそも檸檬を搾つたとりからは、麦酒は勿論ごはんにも適はない、適ひにくい味はひで、果してどこで食べるのか。いや批判はやめませう。[閑文字手帖]は寛容を旨とする。

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 ここで我われは、ごはんにあはせる…適ふ食べものの多くが、(ほんのりと)湿気を含んでゐることを思ひ出したい。この事實は“衣潤仮説”にとつて都合がいい。そんなことを云ふと、とりからにだつて鶏肉の湿気があるだらうと思ふひとがゐるのは無理からぬところではあるが、とりからの妙味は軟らかな鶏肉より引き締つた衣にある。潤びた衣が揚げものスーパー・スターズの本來であることを思ふと、これは決定的なちがひであつて、“衣潤仮説”に立てば、とりからがごはんに適ひにくい理由は明快に理解出來る。併し眞の問題はこの点ではなく、それはいいから、とりからを獨りで呑む夜に食べたい場合、果してどうすればいいのかといふ点にあつて

「当り前の顔で註文して、食べ切れなければ残せばいいんですよ」

といふ助言をするひととは、酒席を共にしたくない。古い世代だなあと笑ふなら笑つてくれてかまはないが、最初つから残してもいいやと註文するのは、食べものを冒瀆する態度だし、獨りで呑む場合、酒精とつまみを最後に綺麗に平らげるわたしの信條にも反する。馴染みになつたお店で

「半分くらゐで、出來ないものかなあ」

と云へればいいのだが、さういふ我が儘を通すには余程に通つて、いいお客になる必要がある。半人分のとりからを註文するのに、どれだけの時間とお金が掛かるかと思ふと、どうも現實的とは呼びにくい。串揚げや串焼きのお店なら、コンパクト・サイズのとりからがあるけれども、とりから自体は目的ではない。アスパラガスや玉葱、ハラミにカシラにレヴァも食べたければ、具合のいい撰択にはなるだらう。なるだらうが、韮玉子焼きだの胡瓜と蛸と若布の酢のものだの烏賊のお刺身だのも食べたいとしたら、コンパクト・とりからで麦酒をやつつけた後、別のお店に移らざるを得ない。梯子酒は決して厭ふわけではとしても、矢張りたいへんに面倒でいけない。

「だつたら素直にたれかを誘へば済むですよ」

その指摘の尤も具合を認めるとしたら、獨りで呑む夜といふ前提が崩れて仕舞ふ。さう考へると、とりからはまことに厄介である。仕方がないからマーケットのお惣菜賣場でとりからを買つて、どうするのが望ましいのか悩むことにしませう。勿論罐麦酒も忘れずに。