閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

263 本の話~汽車にこれから飛び乗つて

『汽車旅の酒』

吉田健一/中公文庫

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  巻末の付記によると、この本は“著者の鉄道旅行とそれにまつわる酒・食のエッセイを独自に編集し”たものださうで、成る程、讀んだ記憶のある文章があつたのはさういふわけか。併し讀んだ文章があるからといつても損をした気持ちにはならなくて、これは鐵道と旅といふ点で文章に一貫性があるからだらう。尤も吉田が書く鐵道や旅は我われの側で考へる鐵道や旅ほど狭くない。

 

「着いたらばお風呂に入ろうと思っていたのが、お座敷に落ち着いてビールだの、お銚子だの、河豚の糠漬けだのが並んだのを眺めているうちに、折角、たてておいてくれたお風呂ももう入らなくていい気がして来た。金沢の浅野川でも、犀川でも、どっちかの川を見降す座敷で飲んでいれば、体は心に従って綺麗になって、ただもうそれだけで筋肉が弛む。或は、引き締るのか。兎に角、いい気持ちである」

[旅]

 

「先ずビールに、それからこれは無難だから、ハム・エッグスを注文する。ハム・エッグスが来たら、辛子をハムにも卵にも一面に塗り付けて、その上にソースをたっぷり掛けると、不思議に正直な味がして、実にいい。それで、今気が付いたのだが、昔の食堂車の料理があんなに旨かったのは、安い調味料をふんだんに使ったからではないだろうか。あれは西洋風の砂糖醤油の味だったのである」

[旅と食べもの]

 

 實のところ、吉田の文章を引用するのは厄介なのである。コンテクストの中のテクストがはつきりしてゐるから、上の[旅]にしても[旅と食べもの]にしても、全文を引かないと、本來のところは解りにくい。但し上の引用だけでも、我われが漠然と考へる鐵道や旅の範疇より、この本が示す鐵道と旅は広いのだと見当をつけることは出來る。それに所謂“旅行記”を称する文章にかういふ豊かさはは微塵も感じられなくて、これは同じ筆者の『私の食物誌』になるのだが

 

「雪が降り続く間、囲炉裡を囲んでの無聊を凌ぐ為に作られたものにはその丹精に甲斐あらせるだけものがある筈である。まだ外は雪でも茶受けに出されたものが囲炉裡の火の色に照応する」

[東北の味噌漬け]

 

といふくだりを讀めば、たれに何を云はれても、雪の東北に行かねばならぬと思はされる。『私の食物誌』は鐵道にも旅にも、直接には関らない筈なのに、旅情が強く感じられる。これもまた文章の豊かさであると見るのは正しい。また食べものは場所…それは吉田が愛したにちがひない金澤だつたり、雪深い冬の東北だつたり、或は東京驛に隣接したレストランや食堂車を含めても誤りではないのだが、さういふ諸々の場所があつて、その場所が旨いものを作るのだと解る。これが解ると、折角の旅行なのだから、旅行先にある何々といふ有名店で名物でも人気の一品でも食べなくちやあならないといふ、ある種の強迫観念から自由になれる。それはその名物なり人気の一品なりがいけないのではなく、旅といふ日常とは異なる時間と場所に身を置けば、驛構内のレストランでつまむハム・エッグスと東北の片隅で囓る味噌漬けが等しくなる瞬間がある。その瞬間を経るのが旅であつて、さうなると有名店の名物でも人気の一品でも、急行列車で食べる幕の内弁当と罐麦酒も等しく旨くなる。この本はさういふことを教へ…いや気づかせて呉れる。但しそれを簡単に有り難いとか嬉しいとか云ふのはどうも誤りらしい。詰り仕事も何もはふり出して、切符を買つて汽車に飛び乗り、幕の内弁当と罐麦酒を味はひたくなるからで、さう考へると、實に迷惑な一冊だと文句をつけたくもなつてくる。