閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

275 サバハイスタンブール

 鯖はうまい。生き腐れと揶揄される足の早さは難点ではあるが、ごく新鮮な鯖ならお刺身でもいいし、当り前に〆てよく、塩焼き、味噌煮、干物に竜田揚げに罐詰。どうしたつて旨い。もしかすると鮭に匹敵する応用力を持つ魚の筆頭は鯖であるかも知れない。鰯や鯵の立場はどうだと訊かれたら、ちよつと困るけれど。安直にやつつけるなら、水煮罐と大豆の水煮とカットトマトを焚くだけでよく(生姜や大蒜、長葱をはふり込む場合もある)、凝つた方向なら幾らでも凝れるから、ここでは触れない。


 ところでトルコにイスタンブールといふ町がある。遡るとコンスタンティノポリス、更に遡ればビュザンティオン。1453年にオスマンのメフメト2世によつて征服された。伝説ではビザンツ最後の皇帝(好みの話ではあるのだが、ギリシアに溺れたローマはローマではないと思ふ。なので東ローマ帝國とは呼びたくない)となつたコンスタンティノス11世は、滅亡を現實として受け容れた時、皇帝の徴であるマントを脱ぎ捨て

「我が首を獲るのはたれか」

とトルコの軍勢に飛び込んだといふ。メフメト2世とコンスタンティノス11世を較べれば、スルターンの方が優れてゐたと思ふが、死の姿の印象は大きなもので、それは英雄的とは呼べなくても叙事詩的ではある。ギリシアだなあ。


 以來コンスタンティノポリスイスタンブールと改称され、今に到るまでトルコの偉大な都市としてあり續けてゐる。そのイスタンブールには名物があるさうで(ここでやつと話が戻るのだが)、鯖のサンドウィッチがそれである。詳しいことはよく判らない。兎にも角にも調べてみると、オリーヴ油に浸して焼いた鯖を、玉葱とレタス、それからトマトと一緒にバゲットに挟み、檸檬をたつぷり搾つて食べるのださうで、これならまづい道理はない。トルコはイスラムの國だから…さう云へばかれらには食の戒律(ハラール)があるが、鯖はどんな風に処理されてゐるのか知ら…、麦酒を望めないのは残念だが、それはイスタンブールといふ町の罪ではない。またわたしがあの町で鯖のサンドウィッチを味はふ機会に恵まれるかといへば、どうやら怪しくもある。


 併し鯖と檸檬と麺麭が適ふなら、勝手な工夫の余地はあるとも思はれて、たとへば我われには、鯖の味噌煮罐詰がある。トマトとチーズ、それから本家に敬意を表する意味で檸檬。味噌煮にチーズですかと眉を顰めるひとには、同じ醗酵食なのだから、きつと適ひますよと応じておかう。


 流石にそれは本家から外れすぎだと思ふなら、マーケットで鯖の塩焼きを買つてくればいい。身を剥がして骨を取る手間くらゐ、互ひに惜しまず参りませう。焼き加減によつては、一ぺん焙つたり、生姜や葱を忍ばせたりが必要になるかも知れないが、何しろ和風の鯖サンドウィッチですからね。これならメフメト2世陛下にも、笑つて許してもらへるのではなからうか。