閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

278 蛸の味

 西班牙や希臘では食べる。

 印度から中國では食べない。

 猶太は“鱗のない魚”として忌避する。


 我が國では歓んで食べる。


 タコの話。


 英語ではoctopusと綴る。そのoct乃至octoは羅典語で“8”の意。october(こちらは“8番目の月”)と同じ語根で、あの生きものを端的に示す呼び方ではなからうか。漢字では蛸が一般的と思はれるが、鮹または鱆、章魚とも書く。

 語源には色々の説がある。ざつと見ると、足が多いから“多股”と呼ばれてゐたといふのが、比較的にしても有力らしい。と書くと厳密な讀者諸嬢諸氏は、それだけだと“虫扁の説明がつかない”と眉を顰めさうだが、中國の“蛸”は我われが云ふ“蜘蛛”を指すのださうで、大陸人はタコを“海蛸子”と呼んでゐたらしい。この字が輸入された時、我らがご先祖は頭を捻つた揚げ句

「なんだ、おれたちが喰つてゐる、あの“多股”のことぢやあないか」

と気がついて、“海蛸子”の中から“蛸”の字を抜き出したのではなからうか。想像ですからね、信用されてはこまる。


 改めて云ふと、地中海文明の地域で、蛸は馴染みの深い生きものであつた。古代希臘の壷に蛸の紋様が描かれた例もあるくらゐだから、余程ありふれてゐたらしい。

 どんな風に食べてゐた…ゐるのか知ら。

 希臘と云へばオリーヴ油だから、グリルにするとかマリネー風にするとか、或は揚げたり煮込んだりもするのだらうか。何せわたしには、古代現代に関はらず、希臘…地中海の友人がゐないものだから、その辺ははつきりしない。どうであれ葡萄酒に似合ふのは確實視出來る。きつと西班牙も同じで、さういふのに縁遠いのは、人生の損失なのだらうなと思はれる。

 併し我が國にも蛸を用ゐた料理は沢山ある。お刺身で旨いのは勿論、唐揚げにしてもうまい。おでんで飯蛸があれば嬉しくなつてくるし、外にも蛸飯なんていふのも有名ですな。些か聲を潜めて云ふと、わたしが一ばん好きなのは、蛸と胡瓜と若布の酢のもので、どこだつたか、カウンタ席だけのごく小さな呑み屋で註文したら、その場で手際よく仕立ててくれて、それがえらく旨かつたのは忘れ難い。呑んでゐたのは濁醪と記憶してゐるが、あの獨特の甘みと三盃酢だか二盃酢の相性があんなにいいとは思はなかつたよ。


 もしかするとピーマンや玉葱、パプリカを使つて、檸檬かヴィネガーで、でなければピックルスと組合せて仕立てたら、洋風の酢のものになるのだらうか。ソーセイジやハムやベーコン、或はシュニッツェルや煮込み料理の隣に、さういふ小鉢があれば、いい具合の箸休め…訂正、ホーク休めになりさうな気がする。但し佛國人には任せない方がいい。きつと、おそろしく凝つた酸つぱいソースを工夫して、何々・ア・ラ・フランセーズとか何とか、物々しい名前で出してくるに決つてゐるもの。佛國の食卓に蛸がなくて(併しかれらは牡蠣を食べる。蛸とどこがちがふのだらう)よかつた。

 佛國ソースの惡くちはまあ宜しい。

 それより奇妙なのは、蛸は旨いねえと云ふ時、我われは必ずしも蛸の味を舌に思ひ浮べてはゐない。それは出汁や塩胡椒や酢やウスター・ソースの味と殆ど等しく、同じ頭足類の烏賊が、烏賊それ自体の仄かな甘みを連想させるのと対照的である。だがだつたら酢のものから蛸を抜いても変らないかといふと、それは決定的にちがふ。どこがどうちがふかを説明するのは六づかしい。蛸の歯触りや香りは明らかにあつて、さういふ舌とは別の部分で感じられることが、蛸の味に繋がつて…蛸の味を暗示してゐさうな気がする。旨いなあと思はず口に出るのは幸せであるけれど、中々ややこしい感嘆でもあるのだ。