閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

285 ソノママ離レ

 過日、久しぶりにニューナンブの頴娃君と一献を交す機会に恵まれた夜の話。我われが好む話題のひとつに歴史を題材にしたドラマがあつて、配役を論ずるのは恰好の肴になる。詰りドラマに登場したある人物をたれが演じたかを論評…かどうかは甚だ疑はしいが…するので、たとへば『武蔵坊弁慶』で源義経役だつた川野太郎や『義経』での中井貴一(源頼朝)や財前直見(北条政子)は、頗る評判が宜しい。ことに『太平記』は楠木正成楠正季兄弟(武田鉄矢赤井英和)を除けば、素晴らしかつたと意見の一致を見てゐる。贅言を附せば前述辨慶での佐藤浩市(木曾義仲)と大地真央(巴御前)は、歴史題材のドラマで最高の配役だつたとわたしは信じてゐる。

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 併しその夜は話題の方向が少し異なつてゐて、頴娃君が云ふには、舘ひろし織田信長を演じた時(たつた今、確かめたところ『功名が辻』でのことらしい)、本能寺ノ変の場面で、演出家が

「信長に鐵砲を撃たせたい」

と云ひだして、考證家を呆れさせたらしい。ご存知でしたか。わたしは初耳だつた。どうも演出家の頭には、“舘ひろし=『西部警察』=銃撃戰”の連想が抜き難くあつたみたいで、云はれてみたらまあ、気持ちは判らなくもない。それに舘ひろしがかまへるなら、火縄銃でも画になるだらう。尤も考證家は

「さういふ事實はありません」

と窘めたさうで(立場としては当然である)、實際の放送がどうだつたのか、『功名が辻』は観てゐないから知らない。

 冷酒を含みつつ、笑ひは含み損ねて、損ねながらも不意に

「事實は無かつたといふより、(一次史料で)確認出來てゐないだけではありますまいか」

「さうですな」と頴娃君も笑ひながら「何しろ舘ひろしだもの、鐵砲を持たせなくちやあ」

舘には気の毒と思へなくもないが、一定の説得力を感じる見立てである。

「考證家としては、史實でない演出に、首肯くのは六づかしい」

頴娃君はさう言葉を繋ぎ

「併しドラマですからな。面白い演出が正しい」

その通り。賛意を口にする代り、かれの盃を満たしてから

「説得力…といふより、尤もらしさを感じられる演出であればだがね」

念を押すと、頴娃君も賛意を示す意味だらう、こちらの盃を満たしてくれた。

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 ここでわたしは、森鷗外の“歴史ソノママト歴史離レ”といふ言葉を思ひ出す。不正確ながら現代語に翻訳すると、“ドキュメントとエンタテインメント”くらゐにならうか。コンテクストが判然としないので、遠慮しつつ云ふと鷗外先生からは、両者を対立する考へ方乃至手法ととらへ、且つ“歴史ソノママ(即ちドキュメント)”を、“歴史離レ(即ちエンタテインメント)”の上位に置いてゐる気配が感じられる。何となく気に入らない。

 丸太如きがそんなことを云ふとは、烏滸の沙汰にも程がある…と我が親愛なる讀者諸嬢諸氏からは叱られるか呆れられるかだらうなあ。

 併しね。と居直らしてもらふが、わたしの解釈に誤りが無いとすれば、鷗外先生の言はフィクションの否定ではないとしても、その地位を著しく貶めかねない響きがある。仮にそこを妥協したとしても、“ソノママ”は果して“ソノママ”なのかといふ疑問は残るし、“ソノママ”だから正確に伝はるとは限らないでせうと云ひたくもなる。舘ひろしが本能寺で火縄銃を構へたとして、それは確かに“離レ”だが、織田信長といふ人物、かれが生きた時代を象徴させる、説得力のある場面なら、それは必要なんである。別に元亀天正だからではなく、半世紀後に平成といふ時代…歴史をドラマに仕立てるとして、矢張り平成を象徴するやうな事象(おそらくインターネットと携帯電話になるのではないか)を極端に示すとすれば、それは平成離レと謗られるやも知れないが、説得力や尤もらしさが増すのなら、平成ソノママより平成を掴める一点で、それは矢張り必要だと云はなくてはならない。

 かういふ話を呑みながら出來てゐれば、わたしの知性も中々どうしてと胸を張れるのだが、残念なことに過日の夜は、そこにまで到りはしなかつた。令和への課題としておかうとして、その令和を象徴する事象は何になるのだらう。それは我が若い讀者諸嬢諸氏に任せる。こちらはソノママからも離レからも距離を置いて、余生のお酒を愉しましてもらふけれども。