閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

292 レバとニラ

 『檀流クッキング』(檀一雄/中公文庫ビブリオ)の二十五ページに、かういふ一節がある。


 豚のレバー二百グラムばかりを食べよい大きさにザクザク切って(中略)、中華鍋の中にラードを強く熱し(中略)、煙をあげる中華鍋の中に放り込む。レバーの表面が焼けて、火が通った頃、ザクザク切ったニラを放り込んで一緒にまぜる。


 手に中華鍋の重さが感じられ、ラードの匂ひや韮の香りまで漂つて…詰り躍動する文章のお手本と云つていい。檀いはく“そこらのラーメン屋でニラレバーと呼んで”ゐると續けてゐて、こちらは少々違和感がある。幼少の頃からこのひと皿をレバニラ(炒め)と呼びならはしてゐたからで、流浪の小説家に逆らはうとする積りではない。

 併し幼少のわたしはニラレバー乃至レバニラ炒めを食べた記憶が無い。祖父母と同居してゐたから、さういふ“特殊な”献立は出せなかつたのだらうと思ふ。ではそこらのラーメン屋で食べたのかといふと、そこらのラーメン屋で少年丸太が食べたのはラーメンと餃子で、そこのメニュにレバニラ炒めがあつたのかどうかも定かではなく、どこからその単語が耳に入り、記憶に残つたものか。


 まあそれは、いい。

 初めてレヴァ…レバニラを食べたのは酒精を嗜める年齢前後の頃ではなかつたかと思ふ。外食が増えてきてからで、それがレバニラ炒め定食だつたのか、麦酒を飲みながらつまんだレバニラ炒めだつたかは曖昧である。曖昧といふことは、少なくともその時はまづくなかつたのと同時に、感心するほど旨くもなかつた間接的な證拠であらう。

 レバニラではなく、レヴァを積極的に美味いと思つたのは[鬼無里い]といふ店での串焼きだつた。堅くならず、生臭さが残りもせず、註文は塩だつたが、あれはまつたく感心した。その[鬼無里い]は残念ながら無くなつて仕舞つて、近辺の呑み助の見識を疑はざるを得ない。レヴァに限らず、旨い肴を喰はせるお店を贔屓するのは、我われ呑兵衛の責務だと云つていいのだが、この話に踏み込むと元に戻るのが六づかしくなる。

 實際のところ、レヴァが苦手だといふひとは少なくない。歯触りは曇り空のやうに曖昧だし、時に獨特の臭みが感じられもする。どうも下拵へ(血抜きは複雑ではないが面倒だもの)が万全でない場合に多いらしい。だとすればレヴァを上手く料るお店なら、内臓や肉の料理に一定の信用を置いてもいいと思へる。さう云へば[鬼無里い]のタンやハツの類も確かに旨かつた。


 さう考へると、レバニラ(炒め)は比較的、許容の幅が広い。韮自体は勿論として、醤油や生姜や大蒜、或は豆瓣醤で味を調へる分、レヴァへの気配りが多少疎かになつても、ひと皿として成り立つからかと思ふ。有り難い話ではありますまいか。それを手抜きや誤魔化しと、難癖をつけるのも出來るだらうが、レバニラ炒めは旨いのだから(残念ながら)、その難癖は成り立たない。尤もかう褒めるほど、人気のある献立ではないらしく、どんな事情なのか不思議でならないのだけれど。

 素早く食べないと、レヴァが堅くなるといふのを、理由にするのは誤りぢやあなからうと思ふ。串焼きでも焼ケタ出タ喰ツタでないと、途端に味が落ちる。レバニラ炒めはそこまで極端ではないにしても、矢張り素早く平らげたい。落ち着かない。小皿にちよいとなら、その心配はせずに済むが、それだと何となく物足りない。第一レバニラ炒めをどう食べるのか。定食…だとすると、ソップの問題(お味噌汁では適はない。炒飯のやうにラーメン風のそれでは味の方向が重なつて仕舞ふ)が出る上、そもそもレヴァがごはんに適ふのかといふ疑問に辿り着く。

 だつたら麦酒にあはせればいいんではないかと首を突つ込むひとが出る筈で、そこは一応の説得力を認めたい。確かにレヴァ…臓物料理のしつつこさと麦酒は似合ひの組合せだもの。ただその場合、甘辛く煮詰めたのに韮と白胡麻を散らした小鉢の方が(これならお酒や焼酎でもいける)更に似合ふ。かうなるとお店で食べるのは諦め、檀が教へて呉れた通り、“ザクザク切つた”レヴァと韮をば、煙の上がる中華鍋で手づから炒めあげるのが、レバニラ炒めの最適解のやうに思はれる。失敗つたところで、自分が食べるだけだから、笑つてすませればよい。