閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

296 好もしい文字

 この手帖では漢字を好んで用ゐる。

 “そば”でなく“蕎麦”、“うどん”でなく“饂飩”、或は“ビール”を“麦酒”とするのが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にもお馴染みか。序でにカタカナ表記も少ない(“トンカツ”ではなく“とんかつ”)とも思ふのだが、こちらは本筋から外れるから触れない。

 この漢字好みは多分、歴史的仮名遣ひを常用するのと関係があつて、どちらが先…影響を及ぼす側なのか、そこは曖昧なのだが、仮にこの手帖が現代仮名遣ひだつたら、漢字の遣ひ方は随分と異なつてゐるだらう。

 さて問題…といふより疑念はここから。わたしは普段から手帖を使つてゐる。紙の手帖。文具好きがゐるかも知れないから参考までに記すと、高橋書店のリシェル2(型番No.212)がそれ。三菱鉛筆のシグノ(型番UM-151-28)で書きつけてゐる。書きつけるのが文字なのは云ふまでもなく、ごく当り前に平仮名片仮名漢字を使ふ。わたしの場合、手帖は予定の管理より日条の記録…何を呑み、また食べたか…が主な目的になつてゐて、さういふ時には漢字の使用量が減少する。上述の蕎麦も饂飩も平仮名表記。書く字が(ひとに云はせれば)非常に小さいのが理由なのかも知れない。もつと単純に六づかしい字を覚えてゐない、或は書くのが面倒といふ理由も考へられるし、それなら自分でも納得が出來る。浅學菲才を居直つたつて、かまはない。では“罐麦酒”と変換さしたのと“缶麦酒”と手書きで記すのと、どちらがわたし本來に近いのだらうか。

 「どちらでもいいさ」

 「どつちも本來だよ」

と思つたひとは寧ろ寛容と云ふべきで、仮に百人がこの疑念に目を通したとして、九十九人以上が無言のままではなからうか。ひとりくらゐはもしかしたら、なんでまたそんな下らない疑念を感じたのかと訝しむかも知れない。切つ掛けは最近になつてまた、荷風の『断腸亭日条』をば讀み返したからである。あの偏窟な老人は日記をつけるにあたり、下書と推敲と浄書と修正を繰り返してゐた。後世公刊されることを熟知してゐたからでもあるが、それでも時局の批判や流行への厭惡は兎も角、巫山ノ夢を結んだ夜と相手については口を噤んでゐて(ある研究によると日付に丸印があるらしく、別の研究だとそれは實事でなく“さういふ気分になつた”印だともいふ)、破棄しただらう反故紙に何が書かれてゐたのか、気になるなあ。話が逸れさうなので元に戻しませう。推敲から浄書に到るまでの間にその字句修辞が諸々の変遷を経ただらうとは、想像として然程の困難を感じない。その中には急いで書きつけた仮名を漢字になほすこともあつた筈で、さう考へると断腸亭の文辞文字は(一応と念を押す必要は認めるとして)、荷風山人にとつて書くことと出版が、殆ど同義だつたといふ点からも、活字版が最終的な形態と見ても誤りではなからう。

 翻つてわたしはどうか。確かに閑文字をば公にしてゐるのは事實である。讀んでもらへれば嬉しいとも思ふ。併しそこには世間さまに対して幾許かの見栄が含まれるのもまた事實であつて、(少なくとも)(文章としては)正直または率直に欠けるのを認めなくてはならない。それにウェブログなんぞは自分で印刷でもしない限り、いつ失せても不思議ではない。だとするなら、高橋書店に書きつけてゐるのがわたしの最終的な形態ではないかと思へる。さうなると表記はどうなるのか。字面の好みは“饂飩”、“蕎麦”或は“罐麦酒”なのだが、さらさらとは書けないのが気に入らない。不機嫌はこちらの勝手として、併し煎じ詰めればわたしの筆記能力がひくいのが原因なのだから、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏に手立てを考へてもらうわけにもゆかぬ。眞面目で親切なひとなら、學ぶのは生涯の樂しみでもある。今からでも一所懸命に書きなさいと忠告を下さるだらう。反論の余地もない。その点は従ふとして、自分にとつて好もしい文字に相応しい文辞をどうにかせねばならぬといふ難関が残り…我が親愛なる讀者諸嬢諸氏が如何に賢明であつても、この点への助言は困難を極めると思はれる。