閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

310 特別急行の卓

 年に何べんかは特別急行に乗る。中央線で新宿と甲府または小淵沢間のあずさ號。東海道新幹線で東京新大阪間のこだま號かのぞみ號。外の特別急行は乗らない。厭なのでなく切つ掛けが見つからないのが理由で、切つ掛けが見つかれば乗るのは勿論吝かではない。

 あずさ號の乗車時間は一時間半から二時間余りくらゐ。のぞみ號だと二時間半くらゐ。こだま號は長くて四時間くらゐ。乗れば降りるまでは車内にゐる。席は決つてゐる。うろうろするわけにはゆかない。禁止はされてゐない筈だが、先頭車輛から最後尾の車輛まで散歩を気取つたら、車掌にもしもしと聲を掛けられるだらう。

 車掌に叱られるのは本意でない。だから自分の席に坐る。わたしの席ではなく、鐵道会社が保有する車輛の座席だと見立ててもいいが、決つた列車の決つた区間、その席に坐るのはわたしだけなのだから、その限られた中はわたしの席だと主張しても間違ひにはならないだらう。長屋に間借りする熊さんが、その限られた空間をおれの家と呼んで、大家さんに叱られるだらうか。

 そこで一時間半から四時間余りの間、自分の席で何をすればいいのか。本を讀むのも方法だらうが、わたしは乗り物醉ひし易いたちである。細かい字にはなるべく目を落としたくない。なので罐麦酒を呑んでお弁当を食べる。乗り物醉ひのたちなのに呑むのかと訝しむひとがゐさうだが、乗り物に醉ふのと罐麦酒で醉ふのでは全然ちがふ。同じ字を宛てるのがいけない。たれに文句を云へばいいだらうか。

 特別急行で使へる卓は狭い。窪んだところに罐麦酒を据ゑ、お弁当を置くと一杯になる。併し卓にはスマートフォンや、場合によつてはデジタルカメラも置きたくて、その分の確保が随分と六づかしい。お弁当の容器は大体が長方形だから、短辺を自分に向ければ、多少のちがひは出來るけれど、お弁当は長辺を自分に向けた時に安定した感じがする。味に変りがあるわけではないが、これもまた、目で食べる態度と云ふべきか。

 併し目で食べるにはスマートフォンデジタルカメラが些か邪魔になるのも事實で、仕方がないから膝に乗せたりする。さうすると体の動きが縛られた感じになつて鬱陶しい。卓が数センチメートルくらゐ延びて呉れれば、罐麦酒とお弁当とスマートフォンデジタルカメラを乗せられる筈だが、卓と腹の間が狭苦しくなる。それも窮屈で鬱陶しからう。