閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

316 気らくな距離

 家の近所に中華風の料理のお店があつて、平日のお晝は日替り定食を出す。正確には五種類のおかずを曜日毎に出し、それらが一ヶ月単位で入替る。詰り五種類掛ける十二ヶ月で年間計六十種の定食が供される計算になる。六十種が全部まつたく異なる新しい料理でないだらうとは容易な想像だし、寧ろ一ヶ月で五種の完全に新しい料理を編み出せる方が信じ難くもあるから、八釜しいことは云はない。それより経験を応用し変化させ(續け)るのだつて大変な筈で、何しろそれでお金をもらはなくちやあならない。全部が全部、大成功になれば云ふことはないけれど、そんな大才が家の近所で小さなお店を営むとは思ひにくい。多少不満足を感じても、メニュに出せると判断されれば來月の日替り定食に採用するのではあるまいか。尤も店主が不満足だつたとして、それがお客の舌に適はないとは限らない。我われ…詰りお客からすると店主の腹の内がどうであれ、七百八十円(日替り定食の値段である)分の満足を得られればいいわけで、もしかすると店主は定食の時間が終つた後、これの出來はもうひとつだと思つたんだが、案外と賣行きがいい、不思議なあと、憮然としてゐるかも知れない。

 かういふ例はくだんの定食に限らず、色々な形であるでせうね。たとへば植田正治先生の寫眞でいふと、“砂丘モード”や『少女四態』よりも『ボクのわたしのお母さん』をわたしは好むのだが、自身の評価はどうだつたか。因みに云ふ。植田正治は大正二年生れの伯耆人。生涯の殆どを鳥取で過ごし、ひとをオブジェのやうに、オブジェをひとのやうに、偶然を排した寫眞を作つた寫眞家…と、ここでは書いておく。植田正治事務所のウェブサイトで略歴と略年譜を見ると

・1932年上京し、オリエンタル写真学校に入学。卒業後、郷里に帰り19歳で営業写真館を開業。

・東京日比谷の美松百貨店写真室での修業の後、オリエンタル写真学校に3ヶ月間通う(第8期生)

とある。昭和七年、十九歳のことで、植田が伯耆以外に居を構へたのは、この期間に限られてゐるらしい。この年の二月に血盟団事件が、五月には五・一五事件が起きてゐて(荷風は断腸亭にこれは伊太利のファシズムの模倣さと論ずるひと、暗殺は我が國古來の特技だと説くひとがゐると書きつけてある)、どうにも血腥くていけない。東京ではとんかつがの流行が本格的になつてきた時期でもあつて、残念ながら植田少年が舌鼓を打つたかどうかは判らない。判らないが、わたしとしては目を見張つて食べたと想像したい。昭和初期の田舎の少年にとつて、とんかつが都会の現代のイコンになり、晩年まで續いたハイカラ好みの源流になつたと考へたい。

 ここでひとつ疑問。植田は食べものの寫眞を作…訂正、撮つたことがあるのか知ら。砂丘にぽつりと耀く舟盛り。勿論盛られるのは境港に揚がつた魚介。一体どんな写真になつたらう。いや先生の食の好みは解らないが、それはまつたく勿体無いないなと呟き、助手やら編輯者やら家族を集めて味はふ方に方向転換をしただらうか。

 残念ながらわたしは鳥取の酒席事情を知らないので、その辺は言葉を濁さざるを得ないのだが、仄聞したところでは、境港の魚は随分と旨いらしい。それも鰯や鯵や鯖といつたありふれた魚を、ちよいと焼いたり、或はさつと煮つけるくらゐで十分な肴になるさうだ。お刺身にして旨いのは云ふまでもなく、まことに贅沢な話ではありませんか。ありきたりが当り前に旨いのは、吉田健一風に云へばそこに文化がある、残つてゐるからで、焙つたり煮たりするくらゐで十分なら、その鰯でも鯖でもひよいと買へる値段にちがひない。羨ましいなあ。と云へるのは我われが気らくな食べる側だからであらうな。仮にわたしがかういふ町で定食屋だか呑み屋だかを営むとしたら、えらく苦心するのは疑念の余地がない。余程気を遣つた仕入れや下拵へをしなくてはならないし、或はその土地では当り前ではなく、然も旨い調理を工夫しなくてはならないわけで、きつと半月もしない内に、さつさと呑み且つ食べる方に鞍替へするのは目に見えてゐる。さう考へると月曜日から金曜日まで、日々異なるおかずを用意する近所のお店は凄い。あのお店なら境港のお魚をどう料るのか、ちよいと知りたい気がするが、それだと伯耆まで行く必要が出てくる。気らくな距離とは云ひにくいのは残念である。