閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

413 夢の超特急

 我われの世代にとつて"夢の超特急"と云へぱ、新幹線ひかり號である。『サイボーグ009』でも加速装置で新幹線と並走(!)する島村ジョーが、無賃乗車を気にしながら、どうにも我慢出來なくなつて、その屋根にちやつかり坐る場面があるくらゐで、鐵道史を顧みるに余程に劃期的な変化だつたのだらうと思ふ。念の為に確かめると開業は東海道が昭和三十九年、山陽は同四十七年。記憶は定かでないが、わたしがサイボーグ戰士を知つたのは、昭和五十二年以降と思はれるから、東海道・山陽新幹線が全線開通した後であらう。

 東海道新幹線を利用…年に何べんか…しだしたのは平成になつてである。ごく単純に住居が関東になつたのが理由。使つたのはひかり號で(のぞみ號の運行開始は平成四年からだが、この頃わたしは大坂に戻つてゐた)、詰り新幹線と"夢の超特急"とひかり號はほぼ一直線で結びつく。のぞみ號が幾ら速くてもそれは

 「ひかり號の技術的な發展と変化」

ではないかと感じられる。實際は異なるのだらうが、かういふのは一種の刷り込みだからどうにもならない。

 

 併しこの十年余り、そのひかり號には乗らなかつた。

 大坂へ帰る時はこだま號。

 東京に戻る際はのぞみ號。

 決り事ではないけれど、習慣がさうなつてゐて、"さうでなくてはならぬ"理由が無い分、却つて変更してみるかと思ひにくい。笑つてはいけません。これは個人の文化といふ範疇の話なのです。

 尤も変更し辛いとは云へ、"してはならぬ"理由も無く、大小は兎も角切つ掛けがあれぱ、ひかり號に乗る事は有り得るわけで、わたしが今回、新大阪驛十六時十六分發(始發)ひかり528號東京行に乗つたのは、その切つ掛けゆゑであつた。…などと勿体振つた事情があつたのではなく、単に新大阪驛でのぞみ號に乗らうとする人びとが多すぎて

 「こだま號だと時間が掛かりすぎる。そんならまあ、ひかり號に乗るとするか」

と考へただけの事、と書くと、殺伐としてゐるなあと呆れられるだらうが、殺伐でもどうでも様々の撰択と行動を詩的な理由で決めるのは、人生の一大困難ではあるまいか。

 ところでえらく最近、そのこだま號を褒めてゐたぞと指摘されるだらうか。だとすればその指摘は正しい。ただわたしが絶讚するのは東京驛發新大阪驛行のこだま號なのだと、念を押す必要はある。わたしが乗る下リこだま號は、正確にいふとそこで呑む麦酒と葡萄酒は、休日の始りを象徴してゐるから褒め讃へるんである。対比的に云へば東京に戻るのは日常への帰還であり、日常に戻るといふ用件を果す必要があるのだから、旅情だの何だのの気分は切り捨てねばならず、それには合理性を突き詰めた上リのぞみ號が似合ふ。

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 ここまで書けば我が賢明なる讀者諸嬢諸氏は

 「ははあ。とすると丸太は、"ひかり號は、特段に速くなくなつて仕舞つたし、こだま號の緩かさも感じられない、云はばどつちつかずぢやあないか"、と思つてゐるのだな」

さう膝を叩くにちがひない。まつたくその通り。ひかり528號は新大阪から名古屋までの各驛と、小田原、新横浜及び品川の各驛を経由して東京に着到する。妙な停車だなと思ふでせう。わたしもさう思つた。思つてゐたら、名古屋驛まで、意外なくらゐの乗降があつたから驚いた。新大阪から名古屋に到る移動と、名古屋以東へ行かうとする必要を詰り巧妙に満たしてゐるのだと気がついて

 (これは大したものだ)

昭和三十九年からの膨大な乗降の資料があつて、最適な停車驛を決めてゐるのだなと感心した。"夢の超特急"と呼ばれるのは速さも当然その條件にある筈として、かういふ要素を見逃さないところが大きいのだ。ダイヤグラムを作るひとは素晴らしい才の持ち主にちがひない。道理で罐麦酒がうまい筈だよ…さう讚辞を贈らうと思つたのは小田原を過ぎた辺りだつたから、我ながらにぶい。

 

 ひかり528號は途中、数分の遅れが出たが、東京驛にははぼ定刻通り、着到した。