閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

436 伝統重んずべし

 いきなり、引用。

 なほ行き行きて、武藏野の國と下つ総の國との中に、いと大きなる河あり。それをすみだ河といふ。その河のほとりにむれゐて思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかなとわびあへるに、渡守、はや舟に乗れ、日も暮れぬ、といふに、乗りてわたらむとするに、皆人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水のうへに遊びつゝ魚をくふ。京には見えぬ鳥なれば、皆人見しらず。渡守に問ひければ、これなむ都鳥といふをきゝて、

 名にし負はゞ いざことゝはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。

 『伊勢物語』の"東下り"の一部で、何となく知つてゐるひとはきつと少くない有名な箇所だと思ふ。この一首を詠んだとされるのは在原業平で、本当かどうかはさて措き、言問橋の名がこの歌に因むと云ふ。文學ですなあ。

 さて。

 このくだりを閑文字流に現代語訳をしてみますよ。

 (更に旅を進めると)武藏國と下総國の境に大きな川があつて、その名を隅田川といふ。

 「我われも随分と都から離れたものだ」

と云ひあつてゐると、川の渡守が

 「早くお乗りなさい、日が暮れて仕舞ふ」

と云ふものだから乗つて渡らうとするのだが、皆物寂しさを感じ、みやこに想ふひとがゐないわけでもないのにと思つてゐると、白い鳥…嘴と脚は赤く、鴨くらゐの大きさ…が水面で遊ぶやうに魚を食べてゐる様が見える。京では見掛けぬ鳥なのでたれも見知らず、渡守に

 「あれは何といふ鳥です」

と訊けば渡守が都鳥ですよと云ふのを訊いて

 名にし負はゞ いざことゝはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

と詠んだところ、舟の客は(遠く離れた京の懐かしいひとを思ひ出して)泪を流した。

 うんざりしたでせう。わたしもうんざりした。原文では気にならない、だらだらした、しだらのない感じが際立つてくる。舟に乗り込んでから都恋しやと泣くまでが一文を構成してゐて、情景と心情がごちや混ぜにもなつてゐる。現代の國語の授業でこんな作文を書いたら、手厳しく減点されるにちがひない。わたしが先生なら

 「もつと区切りを意識しませう」

と赤ペンで記すし、編輯者なら没にする。併しどうも日本語の文章にはかういふ性格が濃厚であるらしく、『源氏物語』の冒頭も

 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。

 (閑文字訳/いつの頃であつたか、女御更衣が大勢ゐる中、出自は低いけれども、帝の寵愛を一身に受ける女がゐた)

であつた。時代と状況と中心になる女の紹介、更に"いとやむごとなき際にはあらぬ"の一節から、周辺の女どもの嫉妬(もつと云へばそこから起るだらう悲劇的な結末)まで暗示してあつて、矢張り文語だからある程度はすつきり讀めても、そのまま現代文にすると、何となく収まりが惡い。たとへば

 いつの御代であつた事か。出自の高からぬ或る女が、帝の寵愛を一身に受けてゐた。宮中には多くの女御も更衣もゐたのだつたが。

と三センテンスに分割する方が、現代文としては判り易くなる。良し惡しでなく、文語文と口語文ではちがふと云ひたいので、誤解されてはこまる。ただ繰返すと、現代文…口語文でも、文語文法式のしだらなさは生きてゐて、この手帖でもその傾向ははつきりしてゐる。

 尤も、とここから云ひ訳と本題に入つてゆくのだが、わたしがしだらなく書くのは、癖といふより吉田健一の影響(眞似とはとても云へない)である。[酒の味その他](『私の食物誌』所収)の冒頭のパラグラフは

 (前略)これから先のことは知らず、もし今までのうちで或る時飲んだ酒が一番旨かったならば、それはその時だけ酒を飲むべき形で飲んだのであって、酒はもしそれが酒の名に価するものならばいつでも飲み方に気を付けるだけで何ともかともという味がするように出來ている。その何ともかともを言い換えれば何とも旨いということで、それは一番旨いということであり、酒はいつでも今が一番旨いと思って飲むのでなければ嘘である。又無理にそう思わなくてもそういう風に旨いのでなければならない。

引いた部分は僅か三センテンスで、特に最初のセンテンスは何ともかとも長く、讀点が極端に少い。だからと云つて

 これから先のことは知らない。もし今までのうちで或る時飲んだ酒が一番旨かったならば、それはその時だけ酒を飲むべき形で飲んだのである。酒はもしそれが酒の名に価するものならば、いつでも飲み方に気を付けるだけで、何ともかともという味がするように出來ている。

と分割すると、センテンスの流れは途切れ、リズムはぐづくづに崩れて仕舞ふ。この批評家の文章はある種の焼酎やヰスキィのやうに癖はきついけれど、蒸溜…ではなかつた、推敲の結果がさうなので、馴染むと實に旨い。わたしがそこまで達してゐないのは改めるまでもないから、影響は認めつつ、眞似が出來てゐるとまでは云へない。

 併しさう考へると、歴史的仮名遣ひを常用する事自体、丸谷才一の影響である。丸谷が歴史的仮名遣ひを用ゐるようになつたのは、和歌に関はる評論を書く時、原文(文語で当然歴史的仮名遣ひ)を引用しつつ、現代仮名遣ひで本文を書くのに違和感があつたからださうで(いつかの随筆で触れてゐた筈だが手元で確認出來ない)、小説家といふのは凄いね…とダデアル調子の途中に、コローキアルな(或はデスマス調子の)一言を混ぜるのも、丸谷から教はつた。我ながら小手先計りだなあ。反省します。

 その小手先の影響や眞似は外にも色々思ひ出される。

 "何々だつた"を"何々であつた"と書きたがるのは菊池光。

 会話調の中で、"信じられん"を"信じられン"などと"ン"を使ふのは小池一夫

 その会話調を原則的に古めかしくする(リアリズムから遠いとも云へる)のは『浮雲』や『吾輩は猫である』、就中内田百閒。

 "何々と云つて(考へて)いい"といふ、断定と推測の間を曖昧にする文末は司馬遼太郎

 スプン(スプーン)、ホーク(フォーク)、マヨネィーズ(マヨネーズ)は茂出木心護。

 デジカメやスマホではなくデジタル・カメラやスマートフォン、特急ではなく特別急行列車のやうに省略を(出來るだけ)しないのは伊丹十三

 本文の途中に鉤括弧で茶々を入れるのは、たれの影響なのかは解らないが、自分で思ひついた手法でない事は、疑ふ余地が無い。

 影響は上に挙げたものだけではなく、自覚の無い分まで含めると、この手帖の殆どすべてがたれか何かの影響であり、眞似であるだらう。話を(自分に都合よく)広げれば、それは文學の基本的な手法で、上の列挙も"春は、あけぼの"から始まる『枕草子』冒頭や、これは凝つた構成だから引用すると

 祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、これらは皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の亂れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。

 近く本朝をうかがふに、承平の將門、天慶の純友、康和の義親、平治の信賴、これらはおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣朝臣清盛公と申しし人のありさま、傳へ承るこそ心もことばも及ばれね。

といふ『平家物語』の冒頭(パラグラフ自体がさうだし、地理や時間まで並べてある)といつた"ものづくし"といふ技法に相当する。詰りこの手帖は伝統を重んじ、また『徒然草』の第百十七段

 友とするに悪き者、七つあり。一つには、高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、たけく、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。

 よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。

で云ふ"物くるゝ友"と"智恵ある友"に恵まれてゐるのだと胸を張れなくもあるまい。残る問題はその恵みが各段に反映されてゐるかどうかで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏が"こぞりて泣きにけり"である可能性は果してどのくらゐなものか。