閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

455 敏感である事

 本棚の奥から『間違いだらけのカメラ選び』(田中長徳/IPC)といふ本が見つかつた。"1993年版"となつてゐるが、翌年版以降は記憶にある限り出てゐない。あまり賣れなかつたのだらうな。

 卅年近く前の本だから、取上げられてゐるのはすべて、フヰルム式である。但し著者が無類のカメラ好きの所為か、ライカ判だけでなく、ブローニー判、シート・フヰルムのカメラまで収められてゐるのは珍しいと思ふ。それでぺらぺら頁を捲ると、ブローニー判の箇所が何とも面白い。何故だらうと暫く考へて、その姿が實にヴァラエティ豊かだからではないかと気がついた。

 我われがブローニー・フヰルムを使ふカメラと聞いて頭に浮べるのは、立方体にフヰルム・マガジンとレンズを附けた姿…ハッセルブラッドか、縦にふたつのレンズが並んだ姿…ローライフレックスであらう。両者はブローニー判カメラの代表格だもの、連想が直線的に働くのも当然である。併し上記の本に載つてゐるペンタックス67は一眼レフの、ニューマミヤ6は距離計連動式の、それぞれそのままの形だし、トプコン・ホースマンVH-Rはシート・フヰルム・カメラを縮小したやうな姿をしてゐる。使ふのは同じフヰルムなのに。

 理由は想像出來る。ブローニー・フヰルムはセミからパノラマまで、フォーマットを撰べる。またライカ判に較べ、カメラ本体はどうしたつて大柄にもなる。従つて一台のカメラですべてをまかなはうとすると無理が生じてくる。結果としてスタヂオで三脚に据ゑればいいものや、プレス用のやうに手持ちで素早く撮るもので、その形が異なるのは寧ろ当然とも云へてくる。限られた目的に適するといふのは不便と呼べなくもないが、その目的で使ふ限り融通のきくライカ判より遥かに有用でもある。

 商品を撮る。

 肖像冩眞を撮る。

 風景を撮る。

 花を撮る。

 列車を撮る。

 星空を撮る。

 山岳を撮る。

 何にでも使へますよ。さういふ方向でライカ判のカメラは変化(進歩發達とは呼びにくい)してきて、それが誤りと云ふ積りはないにしても、商品や肖像冩眞、風景、花、列車に星空に山岳、いづれにも最良でない…が乱暴ならどこかに不満は残る。それを技術と周辺機器でねぢ伏せてきたのがライカ判カメラの歴史ではなかつたらうか。ライカニコンが完成させたそのフォーマットの基本的な姿に他社が追随したのはそれが(撰択出來る)最良の形だつたからで、面白みは兎も角も、経緯は納得させられる。ここまでが例の長い前置き。

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  一般に販賣された(現代的な意味での)デジタル・カメラのほぼ最初にカシオのQV10を置いて、異論は出ないだらう。平成六年の發賣。廿五万画素で当時の価格は六万五千円だつたといふ。呆れる前に我われは、このカメラが四半世紀前の機種なのを思ひ出す必要がある。冒頭に取上げた『間違いだらけのカメラ選び』が出版された翌年で、デジタル・カメラは未だ先の判らない特殊な機械であつた。液晶パネルを見ながら撮影が出來、レンズの部分が獨立して廻転する、といふのはフヰルム・カメラには無い機能で、大小の菓子箱を繋げたやうな形状をしてゐる。洗練される前の技術で造られたから、今の目には大柄で不恰好に映りもするが、フヰルム・カメラと異なる機能を持たせ、使はせる為の撰択といふ意味で優れたスタイルであつたとも思ふ。

 これを皮切りに何年か、デジタル・カメラには様々な形態が用意される。

 ビデオ・カメラのやうに構へる機種。

 分厚い板のやうな機種。

 棒状或は厚切り羊羹(それともチョコレイト・バーと呼ばうか)のやうな機種。

 デジタル・カメラはどこでどう使へるのか、手探りと困惑と迷走の産物だつたと云つてよく、別にそれはかまはない。ブローニー判のカメラだつて遡れば奇天烈と云ひたくなる機種は幾らでもあつた。ハッセルブラッド型とローライフレックス型に(一応附きでも)纏まつたのは試行錯誤の結果なのである。黎明期や過渡期…デジタル・カメラとしては前者、カメラといふ機械で云へば後者…にスタイルの混乱が起きるのは、不思議でも何でもない。併しデジタル・カメラはその後がいけなかつた。どう造ればいいか判らないと頭を悩ませて、旧來の(とここではきつい云ひ方をする)スタイルに収斂さしたのだから、莫迦げた眞似をしたなあと思ふ。

 こんな風に書くと生眞面目な技術者から反發を喰らひさうでもあるが、混乱期に一度棄てた仕組を、改めて旧來のスタイルに埋め込んでゐる一面は否定しにくいのではないか。これは随分と無理矢理な話であつて、乱暴に断定するとメーカーがデジタル・カメラをどう使ふのか、といふ方向を持つてゐない所為(ゐなかつたと過去形では云へない)と思はれる。仮に水中で冩眞を撮りたいとすれば、その前提でカメラに求められる機能は決るでせう。潜るのだから、その状況で使ふ為の形態も決つてくる。さうすれば残るのは機能と形態を美しく纏めるスタイリングである。またさうなると目的に拠つてスタイルが劇変しても不思議ではなくなる。スタヂオでの商品撮影は絶対に無理でも、海中ならば他のカメラは使へない。スタイルはさうやつて成り立つもので、この順序は絶対に逆にはならない。そこを間違つてゐるから、デジタル・カメラのスタイルは大体の場合、詰らないんである。

 それではフヰルム・カメラに實例はあつたのか、と技術者に限らず、更に反發を招きさうだが、オスカー・バルナックとヴィクター・ハッセルブラッド、それから米谷美久の名前を挙げれば十分かと思ふ。かれらには慾するカメラの姿がはつきりとあり、慾するカメラが求める形態も見えてゐた。ライカハッセルブラッドやOMのスタイルが、最初からほぼ完成してゐたのは、理由の無い話ではない。それはかれらが冩眞好きカメラ好き技術好きだから成せた結果と評するのは勿論正しい。その正しさはカメラといふ機械を造る時、先づさういふ云はば数寄者を必要とするのだらうといふ推測に繋がるのではあるまいか。カメラは幾ら高度に電子化しても、根つこの部分が絵筆や樂器に近しい。従つて最大公約数で纏めるより、数寄者の慾求を基にする方が、デジタル・カメラのスタイリングを豊かにするだらうとは容易な推察で、それが商賣にならなければ、賣り方がまづいか、基が間違つてゐるかに当て嵌る。幾つかの失敗はあるだらうが、それでデジタル・カメラが本來得て然るべき形態…スタイリングを持てるのであれば、その失敗もまた大切ではないかと思はれてくる。それはひとつである必要はない。ブローニー判のやうに様々なのが寧ろ当り前であらう。尤もそれを見るこちらの目が曇つてゐればどうにもならない。我われは自分の手で使ふ機械に対して、もつと敏感にならねばなるまい。