閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

465 本の話~巨山に挑む

『ツァイス 激動の100年』

アーミン・へルマン(著)/中野不二男(訳)/新潮社

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  レンズ好き冩眞好きにとつて、第一等のブランドと云へばツァイスである。ライツ・ライカにも優れたレンズがあるのは勿論だし、ニコンにも豊かな伝統があるのは認めつつ、矢張りツァイスには半歩一歩及ばない。

 「何故ならレンズが素晴らしいから」

 といふ有名なキャッチ・フレイズはフォクトレンダーのものだが、それを實證したのはツァイスである。

 併しその歴史は複雑きはまりない。ひとくちにツァイスと云つても、カール・ツァイス、ツァイス・イコン、カール・ツァイス・イェナ、カール・ツァイス・オーバーコッヘン、オプトンにイェノオプティク、様々の呼び名があり、その呼び名は様々に意味を持つ。ドイツの第三帝國体制が崩壊し、東西に分割された影響であつて、仮に敗戰後の日本がアメリカ系とソヴェト系に分割されてゐれば、ニコン大井町ニコンニコン札幌に分かれてゐたかも知れず、さうなると烈しい本家争ひが起きただらうと思へる。それにツァイス(とここでは纏めるが)は、綜合的な光學会社であつた。冩眞機は重要であつても一部門。顕微鏡から天体望遠鏡まで一手に引き受ける世界的な大企業である。アメリカもソヴェトも自陣に引き込みたかつただらう、その後にややこしい権利の争ひもあつたらうと想像するのは容易である。その面倒なツァイス史に切り込まうとしたのがこの本で、手元にあるのは平成七年發行。原書は昭和六十三年までをひとつの区切りとし、平成四年に加筆されてゐる。

 

 入手して一讀の後、本棚にはふり込んだ。再讀したかどうかははつきりせず、もし再讀だとすれば、四半世紀振りといふことになる。どうして讀み返さなかつたのだらう。当時の曖昧な記憶を辿ると、何がなにやら、ごちやごちやして訳がわからなかつた感じがあつた。探偵小説で無闇に登場人物が多いと混乱する、あんな感じがあつた気がする。再讀(と云つておかう)の今回はどうだつたかと云ふと、矢張りひどく混乱した。

 出てくる殆どがドイツの人名と地名だから、馴染み薄いのが理由のひとつ。これはわたしの問題だから目を瞑る。併し時系列がまつたく曖昧で、流れが掴み辛いのは筆者の問題だし、更にツァイスの過去の記述からいきなり現代(執筆時)の聞書きに飛ぶのを連續した章立てで進めたのは、構成の考へ方がをかしいと云はざるを得ない。さうなると訳の技倆が問はれることになるのだが、これがまた感心しないのには参つた。扱はれるのが大きな時代であり、そこに関はる人物が多いのは判るとして、たれもかれもが同じ人物に感じられるのは、訳出の宜しきを得なかつたと云ひたくなる。この本は一体にそのややこしさに対して不親切で、それはもしかすると編輯の問題かも知れない。巻末にこの本で扱はれる簡単な年表や、主要な人物(ことにエルンスト・アッベ、ハインツ・キュッペンベンダー、ヴァルター・バウエルスフェルスト)の紹介を載せなかつたのは、手抜きの謗りを免れない。

 序でに文句を附けると、筆者はカール・ツァイス財団…この本で描かれる本当の主人公…の創設者であるエルンスト・アッベ、またはアッベが示した財団の在り方に魅せられてゐる。ゆゑにそれを押し潰さうとしたナチス政権やソヴェトや(旧)東ドイツに強烈な反感を抱いてゐる。それは止む事を得ない。その結果として、後者を云はば単純な惡党として扱ふのもまだ我慢する。併しそれならアッベ(とかれの理念)に対する批判…検証も示さねばならなかつた。ツァイスを愛する余り、筆者の目が些か曇つたとは云ひたくないけれども。

 それでも四半世紀振りに讀了出來たのは、ツァイスといふ組織の歴史と運命が、フィクション仕立てならどう考へても採用されないくらゐ劇的(わたしがプロデューサーでこんな脚本を讀んだら迷はず没にする程度には)だからである。もうひとつ、初讀の時は気がつかなかつたが、オーバーコッヘンとイェナの"本家争ひ"…裁判に関はるくだりはドイツ人、ヨーロッパ人の"契約"に対する観念(キリスト教徒的だなあと思へた)が剥き出しになつてゐて、ここが面白かつた。裁判は世界中で、長期間に渡つたから六づかしいと思ふが、現在のツァイスに直接繋がるプレ・ヒストリでもある。ここは丹念に掘り下げてもよかつたのではなからうか。筆訳編いづれも意あつて力足らずなのは残念といふしかないが、それがツァイスといふ山の巨きさを暗示してゐるとも考へられる。