閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

470 本の話~がんらい何をしてもいい

『居候匆々』

内田百閒/福武文庫

f:id:blackzampa:20200531180657j:plain

 がんらい何をやつてもいいのが小説で、併しさう云ひだすと何だか落ち着かない。とは云へ何とか定義附けを試みたところで、例外は幾らでも出てくるだらうし、その内定義そのものより例外の方が多くもなりかねず、千年も経てば、事情は異なる可能性はあるとして、こちらはそこまで生きるわけでもない。今のところは、はふり出したままとしておかう。さう考へたのは今回の本の所為で、概略の紹介から先づ六づかしい。昭和十一年に[時事新報]紙の夕刊に連載した、百閒の著作では唯一の新聞小説…と云つたところで、説明にはなつてゐない。目次を見ると

 作者の言葉

 居候匆々

 再び作者の言葉

 登場人物の其後

とある。わけが判らない。作者もよくは判つてゐなかつたのか、"作者の言葉"でこんなことを書いてゐる。

 

 様子が解らないので、これから先先の出来栄えをあらかじめお請合する事は六づかしい(中略)どうにも手にをへなくなれば登場人物を鏖殺にして、結末をつける外はなからうと考へてゐる。

 

 随分と剣呑な話で、不安になつた。[時事新報]紙上で目にしてゐれば、金輪際讀むまいと決意して終るけれど、わたしは文庫版を手にしてゐる。捲り始めた頁を止めるのだつて六づかしい。仕方がないから讀み續けるとする。裏表紙のあふり文句を信じると、獨逸語教授の家に書生として住むことになつた某大學の學生と、その周辺を"生き生きと描いた"小説だといふが、いきなり別の雑誌で高利貸しを主人公にした小説を書いたら、何人もの高利貸しが、おれのことを書きやがつたと怒つた挙げ句、中のひとりが"怒髪冠を衝"いて差押へをしてきたと始まつたから驚いた。高利貸しが居候になるのかと思つたら、登場人物を創るにあたつて、作者曰く"學校の先生を書くつもりであるから、つい二三年前まで同業に従事してゐた私に取つては、いろいろの差しさはりがある"苦心の話であつた。成る程。と感心はしたが、これでは随筆である。随筆がいけないと云ふのではなく、百閒先生の随筆は寧ろわたしの大好物なのだが、これは小説の筈である。何をやつていいとしても、小説になるのか知ら。また不安になつてきたところに、襖の向ふで奥さんが呼ぶ聲がして

 

 もう小説が始まつたのである。

 

平気でさう書いてゐるものだから、びつくりした。狡い。それで主人公の學生…万成君が話を始めるのだが、その話がまた頭も尻尾もよく解らない。本人だつて解つてゐないのではないかと思ふ。ここで云ふ本人は併し万成君なのかどうか。何故と云ふに、小説が始まる直前、百閒先生は

 

 青年に立ち返り、書生に化けて某先生の家に住み込まうと思ふ。

 

と書いてゐるからで、それが正しければ、万成青年は百閒先生の化けた姿といふことになつて、頭と尻尾の区別が附かぬ曖昧な話しぶりは作者のものと考へられる。その一方でこれは小説なのだから、万成君の語ることがそのまま、作者の語るところとは限らない。實にややこしい。こまる。

 さういふ讀者の困惑を知らぬ顔で、万成君は教授の渾名の由來について、授業の一場面について、クラスの懇親会について、お客について、駄弁をふるふ。どうやら大學の中で面妖な動きがあるらしく、また居候先の教授が"ああ云ふ顔をして、胸裡深く恋情を秘して"ゐた…教授は妻子持ち、奥さんは第二子を妊娠中なのに…のが露顕した騒ぎに巻き込まれかけもしたのに、話の欠片がぽつりぽつり、語られるだけである。すつきりしない。さういふ曖昧こそ、學生の日乗だと考へれば、その通りかも知れないが、惹句の云ふ"生き生き"にはほど遠い。落ち着かないなあと思ひながら讀み進めると、何となく何かに似てゐる感じがしてきて、先達があつたと気が附いた。百閒先生の師匠が著した、英語教師の家に転がり込んだ猫の話で、我らの万成君は、あの猫のやうな立場にあつたのか。と安心したのは自分でも少々不思議に思ふ。外の小説を讀みながら、これはたれの書いた何々に似てゐる…内容ではなく文章の系譜が…と感じることはあつても、それが安心に繋がつた経験は記憶に無いところを見ると、余程尻坐りを惡く思つてゐたらしい。

 それで上に記した學内の面妖な動きはどうやら卒業生も巻き込んだ教授陣の権力争ひらしいと解つてきて、露顕した恋情に奥さんの實家も関りさうな気配がしてきて、この小説はいきなり終る。正確に云ふと、この小説の小説の部分がいきなり終る。冗談ではないよと云ひたくなつたが、そこから續く"再び作者の言葉"に目を通すと

 

 漸く三十六回まで書き進んだ昭和十一年の暮十二月二十四日に、明治以來五十五年の歴史を誇つた時事新報が沈没

 

して、作中人物のみならず、"作者自身までが波間に漂ふ様な羽目になつたのは、誠に意外の事であつた"とあつて、百閒先生に意外なのだもの、讀者のわたしが呆気にとられるのも止む事を得まい、と妙な具合に説得させられる。何しろ作者の責任ではないもの。すりやあ仕方がないよね。さう思つてからいや待てよ、万成青年に化けた百閒先生は無事なのか知らと不安になつた。びつくりしたり落ち着かなくなつたり、不安になつたり、まつたく慌ただしい。先生はあれこれ裏話を書いてゐるが、波間に漂ふ羽目…要は未完に終つたのに、えらく暢気な態度だなあ。さてそこで思ふのは、この小説を全卅六回のまま投げ出せば、それは本当に未完である。

 「そこに何かしらを附け足せば、小説…本として世に送れさうである」

ではないですか先生と編輯のたれかが云つたか、或は百閒自身が考へたのか、そこは解らないが、その何かしらが、"再び作者の言葉"と"登場人物の其後"で、うまいことをしたものだと思ふ。連載が中途半端になつたのが、この場合はいい方向に繋がつたので、漂ふ波間で掴んだのは藁ではなかつたことになる。神経質な、もしくは生眞面目なひとは

 「最初の構想はどうだつたのだらう」

と気を揉むかも知れないが、作者は冒頭言で、"先先の出来栄えをあらかじめお請合する事は六づかしい"と書いてゐるから、その辺は最初から曖昧だつたのだと思はれる。仮に何か腹積りがあつても、今からそれを確める術はないし、がんらい何をやつてもいいのが小説と考へれば、我われの目の前にあるこの本は、その考へを實に判り易く示してゐる…と、ここまで色々と書き散らして、この本の話を實は殆どしてゐないのではないかと不安になつた。なのでひとつ、会話の描冩がまつたく美事と(大急ぎで)触れておく。ことに學生連中の生意気さといい加減さと慇懃で無礼な口吻が巧妙で、百閒先生の耳は(大學教師だつた経緯はあるにしても)余つ程敏感だつたに相違ない。『浮雲』を経て江戸の戯作に遡れる藝かとも思へて、その一点を味はふ目的で讀むのもいい。