閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

472 定食

 家の近所に小さな飯屋がある。晝間は定食、夜はちよつとした呑み屋。まあよくある営業形態だと思ふ。それが諸々の事情で晝のお弁当と夜の持帰りになつて、夜はもとから足を運ぶ機会が少かつた(小さなお店だから禁煙なのである)から我慢出來るとして、晝の定食が中断したのはこまつた。毎日食べるわけではないが、"日替り"定食が中々に旨いお店で、わたしみたいな舌の持主には些か上品かと思へたりもするのだが、朝の珈琲を飲みながら、不意にけふの晝はあすこで食べるか、と思ふ樂みが奪はれたのは甚だ迷惑な話であつた。お店にも迷惑だつたにちがひなく、馴れないお弁当を賣り出しはしたものの、さういふ賣り方を考へてゐなかつた筈だから、そのあたふたした感じが気の毒に思へた。お弁当は"烏賊と大蒜の芽の旨辛炒め"と"細切り牛肉と大蒜の芽の炒めもの"を試した。作り方が何とも無器用だつたので苦笑はしたけれど、どちらも旨かつた。但し満足はしなかつた。お店で卓子についてゐたら、烏賊も牛肉も大蒜の芽も、もつと旨からうなと思つたからで、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、手厳しいと云ひ玉ふな。それがやつと、(多少の制限はありながらも)以前の営業形態に戻つたのが最近で、"日替り"定食に、中華風肉豆腐とあつたから、これを食べないわけにはゆかんだらうと思つた。

 挽肉と野菜を醤油か味噌で甘辛いあんに仕立てて、炒めた豆腐に乗せてくるのだらう、きつと旨い。

 さう予想した。

 さうしたら豚肉。筍。青梗菜。人参。木耳。白菜。塩胡椒と醤油、薄つすらと生姜を効かせ、豆腐と一緒に炒められたのがお皿に盛られてきた。

 全部はずれた。

 いや全部外れは云ひ過ぎで、きつと旨いといふ予想は当つた。細かいことを云ふと、生姜の効かせ具合はもう少し強くてもよかつたと思ふし、豆腐は絹漉しより木綿の方がこの仕立てなら似合ふとも思ふ。また添へた匙が金属なのは感心しない。掬ひ易いのは判るけれど、豆腐と愉快なオール・スターズとは口触りが異なりすぎる。併し最初からまづい場合、なほす目的でも無い限り、細かいところは気にならないことを思ふと、上塩梅と云つていい。この"上塩梅"は老舗で鰻を食べた芥川也寸志が呟いたさうで、丸谷才一の本で讀んだ。耳のいいひとだなあ。わたしの中華風肉豆腐だつて、上塩梅では負けてゐないけれど…と断言するには、正直なところ、少し計りの不安が残る。作り置きのお弁当に不満があつたのが、一ぺんに解消されて嬉しかつたからで、贔屓が多分に混ざつてゐる。併しそもそもが気に入りの、詰り贔屓のお店で食べたのだから、批評が少々あまくなるのも仕方がない。

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