閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

474 定食、また

 前々回、気に入りの定食屋で久しぶりに食べたことを書いた續きである。何故かと云ふと中華風肉豆腐定食をやつつけながら目にした"日替り"定食の献立に、鶏とピーマンの甘味噌炒めとあるのに気附いたからで

 (こいつを食べない法はないといふものだ)

と思つた。それで過日、意を決して食べに行つた。歩いて三分も掛からないお店に、意を決せねばならなかつたのは、その日は朝から暑く、外に出るのが躊躇はれたからである。一体わたしは暑いのが苦手できらひなので、気象庁風に云ふところの夏日になると、途端に何もかもうんざりする。併し夏日といふのは摂氏廿五度超卅度未満の範囲であつて、だつたら廿四度なら平気なのか。廿四度と廿九度ならちがつて感じるだらうが、廿四度と廿五度でうんざりするかしないかを分けるのは、随分と無理のある厳密にも思ふ。

 「サイエンスの基本には数字があるからねえ」

と云はれたらそこはその通りとしても、体感は数字の目盛がひとつ動いたからといつて、明確に変るものではない。たとへば朝の風が涼やかでも、朝の天気予報でけふは卅度の眞夏日になるですなどと云つてゐたら、そこでぐつたりする。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏はいざ知らず、わたしはきつとさうなる。さういふ午前に食べに行くと決めたのだから、その堅さの程を想像してもらひたい。

 お店は午前十一時半に開く。お晝の定食時間は午后二時まで。但し定食は賣切れ御免なので、遅い時間に行くのはどうも宜しくない。わたしの住処の近所には小さな会社が埋もれてゐるらしく、お晝時にはお客で混む。ぽつねんと食べるのに抵抗はないが、狭い店内でわたしひとりが卓を占めるのは少々憚られる。さう考へて、開店直ぐに行くことにした。かう書いたら如何にも十分に考へての行動らしく映る筈で、さういふ期待があつて書いたのだが、實のところ、普段からそこに行くのは、大体開いて直ぐの時間帯なのである。習慣通りであるから讀者は感心しなくても宜しい。

 入るとどうやら口開けらしかつたので、よ御坐んすかと確めてから、扉の直ぐ右手にある二人掛けに着いた。何となく坐つてゐるうちに、"いつもの席"のやうになつた気分で、小さな店では通ふとさういふ場所が出來ることがある。クリストファ・リーヴ版のスーパーマンで、クリプトン人の力を失つたクラーク・ケントが、いつもの店のいつもの席をちんぴらに奪られる場面があつたなあと思ひながら

 「では、"日替り"定食をお願ひします」

と註文した。因みに映画では最後に、力を取り戻したクラークが、いつもの席も取り戻して終るのだが、取り戻す以前に失ふ力を持合せないわたしの席に、ちんぴらが坐つてゐなくてよかつた。といふことをぼんやり考へるか考へないか、曖昧なまま…何しろこちらは定食の實物が気になつて仕方がないのだ…、鶏とピーマンの甘味噌炒め(定食)が登場した。

 見た目は黑い。画にはならない色みと感じたが、ピーマンの緑と玉葱の白の鮮やかを見て、さうでもないと思ひなほした。尤も食べものは一体、花やかさと味はひに然程の関係は無いものだから、気にはならない。それに火が通つて少々焦げた甘味噌の香りはたいへん好もしく、先づ肉をひと切れ。胸肉だらうか、少しぱさついた歯触りがする。も少し脂つこさがあつてもいいか知ら。併しそれだと甘味噌と喧嘩しさうな気もする。ピーマンと玉葱はまことに結構。下手が炒めるとぐんなりして仕舞ふものだが、下拵へが巧いのだらう、そんなことはまつたくなかつた。

 「それでは鶏肉が活きてゐないのかな」

などと思はれてはお店の名誉に関はるので念を押せば、ピーマンや玉葱とあはせて口に入れると、野菜の潤びたのが鶏と適つた。詰りさういふ食べ方が望ましいことになる。定食なのだからごはんが附いてあるのは勿論で、味附けもまたごはんに適ふ具合にしてある。紹興酒や麦酒を呑むにはちつと穏やかが勝る感じと云へばいいか。甘味噌が全体を緩やかに纏めてゐて、何かしら飛び出るところがない。

 (花椒や大蒜や生姜や葱のあしらひ次第で、恰好のつまみにもなるだらうな)

さう考へ…考へただけで、麦酒なり紹興酒なりを呑まなかつた。それで不満を感じもしなかつたのは、わたしの我慢強さよりも調理の妙を褒めなくてはなるまい。すつかり平らげ意を決した甲斐があつたものだと思つた。お勘定を済ませて店を出るのと入れ替りで新しいお客がやつてきた。けふの"日替り"は旨いですよと云ひたかつたが、何とか我慢した。外は初夏の太陽が照つてゐたから、再びうんざりした。

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