閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

478 本の話~番外篇

 手元に『アメリカ素描』といふ本がある。新潮文庫。著者は司馬遼太郎。奥附を見ると平成元年四月廿五日に第一刷。同十年九月晦日に廿三刷となつてゐる。単行本は昭和六十一年に讀賣新聞社から發行された。定価は消費税別で六百九十二円。尤もわたしは古本で入手した。新刊文庫で一度購入したが、どこかに失くして仕舞つて、偶さか立ち寄つた古本屋で見つけたのである。値札は剥がしたから幾らで買つたかははつきりしないが、最低の値段だつたのは間違ひない。何故かと云へば書込みがあるからで、優れた研究者なら知らず、市井の(おそらくは)小父さんの書込みに値うちが出る筈はない。かう書くと我が眞面目な讀者諸嬢諸氏は

 「何でまたそんな莫迦ばかしい買物をしたのだ」

と呆れるだらう。わたしも莫迦ばかしいと思ふ。だから買つた理由はよく判らない。ここで多少の云ひ訳をすれば、本に書込みをする習慣をわたしは持合せてをらず、逆さに面白がつた可能性はある。それは古本の樂みで、たれの手にあつたか判らない本は、同じ本でもちがふ顔になる。わたしの手にある『アメリカ素描』では、四十一頁から五十七頁にかけて書込み以外は綺麗なものである。そのことに気が附いた時には苦笑を禁じ得なかつた。考へられるのは

 

 ・それ以上書込む必要を感じなくなつた。

 ・讀むのが精一杯になつて書込めなくなつた。

 ・書込む気力と讀む意慾の双方が失せた。

 

なのだが、どれが正解かは判らないし、ひよつとして予想外の正解があるのかも知れない。正解が何かはどうでもよく、さういふ勝手な想像を出來るのが樂みの第一。第二の樂みにその書込みに突つ込みを入れることを挙げたい。傍線を引く箇所がちがふだらうとか、文言が意味不明だねえとか、惡趣味と云はれるにちがひないが、たれかに云ひふらしはしないし、見せびらかすわけでもないから、そこはひとつ、大目に見てもらひたい。

 とは云へ。わたしにも例外はある。個人史で云ふ空前絶後の空前になるかと思ふのだが、一冊だけ書込みをした本がある。デニス・レーニが著した(翻訳は田中長徳)『ライカポケットブック』(日本での發行はアルファベータ)がそれで、ある時期中古のカメラを扱ふ店勤めたことがあつてその頃に入手した。讀みものではなく資料代り。詰り本の形をした道具のやうなものだつたし、最初からその積りでもあつたから、愛玩物の気持ちは感じなかつた。買つて先づ見出しを附け、後は新しく得た情報を各項目の頁に追記して、たとへばライカM6の項には

 

 1998 生産終了(チタンカラーを除く)

 M6HM(0.85)生産開始~終了(約500台?)

 M6TTL.同0.85發表~發賣開始(ストロボTTL採用)

 

と書いてある。頭の数字は西暦。どんな風に確認したか記してゐないのは失敗だつた。型録や価格表(の切れ端)を貼り附けてゐないのも失敗といへば失敗で、当時の事ではなく、廿年経つてからの樂みだから、後悔と呼んでいいのどうか。ここで不意に井上ひさしのエセーを思ひ出した。手元に現物が無いから記憶で書くと、『広辞苑』に色々と書込んで、"井上式"の『広辞苑』にしてゐるとかそんな話だつた。

 (ははあ。辞書にそんな使ひ方があるのか)

えらく感心したのは忘れ難い。あの戯作者は確かに實作の道具として『広辞苑』を操つてゐて、どうやらわたしは『ライカポケットブック』を入手する前から、それに影響されてゐたらしい。と書く時、何が頭にあるかと云ふと、冒頭の『アメリカ素描』で、書込みをした無名氏は、あの本で司馬が暗喩で示し續けた文明と文化について、考へるところがあつたから、さうしたのか知ら。あの小説家は常に具体的な場所…人物や土地や事象に片足を置かないと文章を書きあぐねるひとだつた。なのでその具体の示すところから抽象…普遍的な何事かを導き出さうとする作業は、讀者に求められる。それは残念ながら傍線一本ではどうにもならず、小父さんが止めたのは、そこに気附いたからかも知れない。好意的な解釈をすればだけれども。といふ些か意地の惡い、厭みな書き方になつたのは、本といふ物体をフェティーソの対象にする傾向もあるとして、それ以上におれはさうではない、"井上式"なのだといふ根拠のうすい自慢ゆゑである。司馬が聞いたらきつと呆れるだらうなあ。

 併し無名氏の手法がまつたくいけないと断言は出來ない。再讀三讀に値する一冊であれば、讀む都度に思ふところはある筈だし(それが再讀三讀したくなる本の基本的な條件ではないか)、その思ふところは前回讀んだ時と同じとは限らない。それを書き續けてゆけば(たとへば色ちがひの鉛筆で)、五年後十年後に、自分の考へ方の変化を辿れるだらう。『アメリカ素描』なら、その長いながい樂みによく似合ふ。