閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

479 無精式の豆腐

 蒸し暑くなると食慾が減退するのは毎年のことで、それを何で實感するかと云へば、お米を炊く機会がぐつと減る。

 (まあ今日は麺麭でエエか)

麺麭が豆腐になることも素麺になることもあつて、詰りさういふ気分を感じると、(わたしにとつて)一ばん厭な季節が始つたと云つていい。

 令和二年の今は麺麭や素麺ではなく、豆腐が主食の坐を占めつつある。キヤベツの千切りなんぞに乗せ、揚げ玉と大根おろしと生姜。わたしは無精だから、麺つゆか味附けぽん酢を使ふ。もう少し空腹を感じたら、焼鳥の罐詰だのツナ罐だのを追加する。鮭のフレークや鶏のそぼろでもいいかも知れないが、そちらは未だ試してゐない。忘れないうちにやつてみなくちやあ。

 併し食べ易くて種々を一ぺんに摂れるとなつたら、冷し中華ではあるまいか。ハム乃至煮豚、胡瓜、錦糸玉子、木耳、海月、トマトに紅生姜と挙げればこれは

 (麺類の中では完全食に最も近いのではないか)

とも思へてくる。いや半ば以上本気で云ふのですよ、わたしは。ラーメンでも蕎麦でも、残念ながらかうはゆかない。対抗出來るとしたら眞冬の鍋焼き饂飩くらゐで、半熟卵に青菜に椎茸、榎茸。白菜に豆腐に油揚げ。鶏肉豚肉、鮭に鱈と指を折れば魚介を含む分だけ、完全麺類には更に近しいが、眞夏といふ季節を鑑みれば、ここは冷し中華に軍配が挙がる。かういふ賑々しさをたとへばスパゲッティに求めるのは無理があつて、仮に冷たいソップで仕立て、トマトだの茄子だのチーズだの煮込んだ牛肉だのオリーヴだのうで玉子だの炒めた烏賊だのを花々しく盛りつけたひと皿があつても、我らが同胞は洒落てゐないと云ふだらうし、イタリー人なら

 「日本人は巫山戯てゐるのか」

激怒するだらう。激怒するに決つてゐる。そしてイタリー美人が忿怒の顔つきになつたとしたらそれは正しい。スパゲッティは我が國でのかけ蕎麦かきつね蕎麦程度の簡潔安直だから毎日啜れるのだ。さう云へばリュック・ベッソンの『グラン・ブルー』で、ジャン・レノ演ずるイタリー人のエンゾがカフェで、"マンマが作つたのではないスパゲッティを食べてゐるのがばれたら殺される"と頭を抱へる場面があつた。裏を返せばエンゾのマンマが毎日作れるのが伊太利式スパゲッティであつて、更に念を押すとそこがスパゲッティの素晴らしさでもある。これは余談。

 冷し中華については随分以前に触れた。確めたら二年前…平成卅年五月の[始めました]で、翌年八月にも[ロヴェルの冷し中華]と題した一文を書いてゐた。冷し中華が好きなのだな、わたしは。もしかすると甘酢あん好み(胡麻たれの冷し中華は好みに適はない)が関係するのだらうか。と書いて自分のことながらひとつ、不安が生じた。といふのもわたしは麺料理の中でラーメンの格を低く評価してゐて、それは

 「ラーメンといふ食べものは基本的な形が整ふ前に、種類だけがいたづらに拡大した」

と思ふからである。巨視的に云へば冷し中華もその特殊な一種…ざる蕎麦の影響は少からずあるだらうし、もしかするとお祭りのやうな賑やかさは、鍋焼き饂飩から學んだかも知れない…と見立てるのが正しく、さうなると冷し中華をラーメンより好む態度はまつたく矛盾する。高々ラーメン冷し中華だし、あまり気に病まないこととしておく。

 それで話を豆腐に戻す。何故かと云ふと厳正な立場を取らなければ、豆腐はまつたく安直な食べものだからで、中華麺のやうに茹でなくても口に出來るのがいい。それにもうひとつ、冷たくても温かくても豆腐はうまいことは、特筆しておきたい。最初に書いた無精者のひと皿にしても、一応はサラド風であるが、豆腐と味附けぽん酢を温めても成り立つ。もつと云へばわたしが買ふくらゐの豆腐は無味に近いから(上塩梅の豆腐は醤油を少し垂らせば、外は要らないと感じられる)、思ひつく味附けの殆どは適ふ。詰り鍋焼き饂飩の半熟卵や青菜や椎茸、榎茸にスパゲッティのトマトだの茄子だの煮込んだ牛肉だの炒めた烏賊だのは勿論、冷し中華の煮豚に胡瓜、海月、トマトや紅生姜だつて似合ふ。似合ふにちがひない。流石に全部纏めるわけにはゆかないとしても。併し生姜と大蒜を隠したミート・ソースを掛けて温泉卵を乗せ、刻んだ青葱を散らしたり、酢豚に使ふやうな熱い甘酢あんや、胡瓜と茗荷をたつぷり入れた冷や汁風の濃い味噌汁に胡麻を散らしても、豆腐は易々それを受け容れると思はれる。丹念に下拵へをしなくても、出來合ひを買つてお皿に盛れば何とかなる、なりさうなのは、無精者にとつてまことに具合が宜しい。商ひならそこで何か恰好を附けなくてはなるまいが、こつちはそんなことを考へなくてもいい。罐麦酒でも冷した安葡萄酒でも引つかけながら、その豆腐を木匙で崩して食べれば食事であつて…併しそれをを果して食事と呼んでいいものか、どうか。