閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

494 好きな唄の話~ガラスの天球儀

 涙の雨が降る天球儀の中を、走れ君のレイン・コート、さう呼び掛けるのである。

 (これはもう、ジュブナイルではないか)

 ジュブナイルとは何ぞやと訊かれたら応じるのは六づかしいが、少年の冒険小説…いや冒険の物語と(ここでは)(一応)云つておかう。今でもあるのか知ら、何とか少年文庫。現代では色々とややこしさうな気もするが。

 斉藤由貴が唄ふ谷山浩子の歌詞は、綿飴の上をつま先で歩くやうに非現實的な感じがして、そのふはふはした落ち着かなさがいい。かう云ふと何故それがいいのですと詰め寄るひとが出る筈だが、それはジュブナイルの定義同様に応じるのが六づかしい。谷山の詩…詞ではなく…を、斉藤の聲が奇蹟的に世界の形にしてゐると気取るのもいいが、思ひきつて、わたしに適ふのだと開き直らうか。どうも後者の方が事実に近い気がする。

 

 尤もこの唄は斉藤谷山としてはやや珍しい。ここでまたしてもジュブナイルの語感に頼らなくてはならないのだが、このふたりが作るのは、どちらかと云へば叙情的な少女漫画を聯想させるのが多く…[SORAMIMI]や[MAY]を挙げればいいと思ふ。序でながら、前者と[土曜日のタマネギ]は斉藤由貴の唄つた最高傑作だとわたしは信じてゐる…、少年の冒険、正確に云へば少年の冒険を見守る妖精のやうな視点は、砕けた水甕の所為でずぶ濡れになつた銀河と共に、冒険譚の画を作つてゐる。そのくせその画は映像的ではまつたくなく、少女漫画のやうな流れも感じさせず、寧ろ絵物語…水彩画家が描いた紙芝居に近い。さう考へれば、唄の在り方として特殊な方に分類したくなるわたしの気分も、誤りではないのかと思はれてくる。