閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

495 好きな唄の話~夜歩く

 筋肉少女帯のアルバムで一ばん完成してゐるのは『サーカス団、パノラマ島へ帰る』ではないかと思ふ。ことに冒頭、[ビッキー・ホリデイの唄]から[詩人オウムの世界]は大槻ケンヂの猟奇好み、乱歩趣味がちやんと唄物語になつてゐる。今確かめたら發賣は平成二年…實に卅年も前だと知つて、少し計り驚いてゐる。

 その筋少を初めて聴いたのは、更に遡つた昭和六十三年の『SISTER STRAWBERRY』で、その時はなんてえ酷い雑音なんだと思つた。

 「ぢやあどうして買つたのさ」

と云はれるだらうが、そこは思ひ出せない。当時は令和の今ほど音樂は安くなかつた上、新譜の情報も限られてゐた。その中でこの一枚をわざわざ撰んだ動機は何なのか。自分のことながら興味を感じなくもない。その辺の事情は兎も角、この唄だけはえらく気に入つた。三柴江戸蔵の叩いたピアノがよほど性にあつたのか。外が余りと云へばあまりで、相対的にましだと感じたのか。

 

 工場の脇の道を"きみ"と歩く夜。"きみ"はどうやら語り手である"ぼく"の恋人らしい。その語り手は唄ひ手即ち大槻なのかどうかは判らない。"きみ"は夜の底に沈む幽霊に思ひを馳せ、濡れた歩道を高いヒールでよろめきながら踊る。"ぼく"はその姿を見つめ何を思ふのか。判らない。わたしは"ぼく"でないもの。貴女が"きみ"でないのと同じく。そして語りに語つた"ぼく"は叫ぶ。

 ファントム!

 だがそのファントムは果して本当なのか。"きみ"は實在してゐなかつたかも知れず、實在したとしてファントムでないのかも知れず…"きみ"が"ぼく"の迷妄ではないと、たれが保證出來るだらうか?…寧ろ"ぼく"こそがファントムであるのかも知れない。とわたしが書くのは根拠の無い勝手な妄想である。併しそれは決定的に誤つてゐるとは云へまい。さういふ解釈の余地が残る、掌編小説のやうな唄ではあるまいか。