閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

502 ある晩突然どうしても

 ある晩どうしても焼き餃子が食べたくなつた。かういふ突然の慾求はたちが惡い。

 近所のマーケットに行けばパックに入つたのを賣つてゐるがそれだと寧ろ我慢出來なくなるだらう。

 冷凍ものを食べる気持ちにもなれない。

 無理をして我慢して食べると腹が立つてくるのは経験ではつきりしてゐる。マーケットよりもつと近所の"中華酒場"では旨い焼き餃子を出してくれるのは知つてゐる。併しその日はお休みだつたからどうにもならない。仕方がないので別の用事を云ひ訳に出掛けることにした。云ひ訳があれば行ける程度の距離に矢張り旨い焼き餃子を出すお店がある。かういふ場所を知つてゐるのは喜ばしいのかどうか。

 そこは旨くて小さいお店だから暢気にかまへると入りにくくなる。なので暖簾を出して間もなくのところで

 「よ御坐んすか」

ともぐり込んだ。"金魚"…焼酎ハイに大葉と唐辛子を入れたやつ…を註文した。つき出しは生ハムを乗せたバゲット。旨さうである。ひと安心して焼き餃子を頼んだ。確か北國産と聞いた女将さん(詰り中々の美人)が外のお客をあしらひながら焼くので時間が掛かる。併し広くない…有り体に云へば狭いお店でまめまめしく動く女将さんの姿はいい。何をしてゐるかの見当がつくから"おれの餃子"がどうなつてゐるのかが判るのもいい。腹は膨れないが"金魚"のいいつまみである。とは云へ今回の目的が食べられないのはこまる。"金魚"の残りもそろそろ怪しくなつてきたところに

 「はいお待たせしました」

と登場したから顔が綻ぶのを抑へられなかつた。薄く広がつた羽根の下に餃子の陰が四つ。"金魚"のお代りを頼んだ。

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 詰めこまない程度の具を薄めの皮に包んだ餃子は矢張りうまい。口当りのかるさは酒精のお供に恰好である。冒頭に挙げた"中華酒場"の焼き餃子はがつしりした皮でみつしりした具を受けとめる食事のやうな仕上りとは対極的と云へる。良し惡しでないのは勿論だが議論の種にはなる。

 「焼き餃子と云へば麦酒だよねえ」

さう思ふひとの為に云へば焼き方(だと思ふのだが)次第で焼酎が似合ふ。何がどうちがへばさうなるかまでは判らない。但し"金魚"と焼き餃子が出合ひものなのは確實なのでかこつける用事を作つてよかつたと満足した。それで半分くらゐ食べたところで冩眞を撮つてゐないと気が附いた。食べものの冩眞を撮りたがるのはお行儀が惡い。まして食べさしはもつとお行儀が惡い。併し撮らざるを得ない。と思ふのは要するにこちらの記憶力が怪しいからである。旧い友人に云はせると忘れて仕舞つたら"それまでと思ふけどな"らしいけれど事情はさう単純でもない。撮る理由には記憶の代用だけでなく見せびらかしも含まれる。そこを文章で

 「ひとつアレするのがこの手帖の本筋ではないかね」

と云はれたらそれはまあその通り。ではあつてもほらほら見てよと云ひたい気持ちもある。なのでこの時はそのほらほら見てよを優先して(お行儀惡くて御免なさい)と思ひつつ大急ぎで撮つた。それでも何となく照れくさくなつたからもう一品と更に"金魚"を註文した。すつかり平らげてご馳走さまを云ふ頃になるとお店はそろそろ混雑をはじめてゐた。