閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

515 曖昧映画館~オリエント急行殺人事件

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 確か創元推理文庫版で讀んだ。この映画ではアルバート・フィニーがエルキュール・ポワロを演じた。どうもポワロと云へばデヴィッド・スーシェの顔に、熊倉一雄の聲の印象が強く、フィニーの名前を思ひ出すのに少々時間がかかつた。本來は許されないが、クリスティの小説はミステリの古典と呼べるくらゐ有名だし、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏もご存知だらうから、筋立てに触れることも気にしない。

 雪に降り込められたオリエント急行の車内で男が一ダースの刺し傷で死んでゐるのが見つかつた。殺されたのはラチェットといふ大金持ち。季節外れなのに容疑者となる乗客は十二人もゐて、併しそれぞれにはアリバイがある。犯人はたれか。どうやつてラチェットを刺殺したのか。

 死者は酷い男だつた。本名はカセティ。アメリカで少女を誘拐し、身代金を手に入れた挙げ句、その少女を殺害して逃げたのだから、死んだところで同情の余地はない。なので観客である我われは、被害者に肩入れせず、ポワロの推理につきあふことになるのだが…その画面がまあ、濃い。ここだけは念の為に確かめると、ショーン・コネリーがゐる、イングリッド・バーグマンがゐる、アンソニー・パーキンスが、ヴァネッサ・レッドグレイヴが、ローレン・バコールがゐる。

 絢爛豪華。

 我が國の名探偵と云へば、明智小五郎金田一耕助を挙げればいいと思ふけれど、かれらを主役に、オールスター・キャストの探偵映画が撮れるだらうか。明智野村萬斎を配して、容疑者には中井貴一佐藤浩市鹿賀丈史香川照之阿部寛真田広之…といふのを思ひついた。女優の名前が浮ばないのは残念だし、画面のくどさ濃さは兎も角、絢爛とも豪華とも感じさうにないのはもつと残念である。話をオリエント急行の車内に戻しませう。

 犯人の計劃は併し完全ではなかつた。雪で停り續ける列車とエルキュール・ポワロである。探偵は身動きの取れない列車の中で、丹念に慎重に、そして礼儀正しく調べを進め、推理を組み立てる。そこで見えてきたのは、ラチェット…カセティに殺された憐れな少女の姿。十二人の容疑者は彼女と関つてゐたのか、ゐなかつたのか。灰色の脳細胞は

 「ラチェット…カセティと対立してゐた連中が、犯人でせう。列車に潜んでかれを殺し、雪で動けなくなる前に降りて逃げたのです」

と考へを披露する。成る程、筋は通つてゐる。が、どこかがをかしい。そこでポワロは礼儀正しく、もうひとつの推理を語り…一ダースの傷、十二人の乗客、そして少女の影はオリエント急行を舞台に、余りにも有名な眞相を紡ぐこととなつた。探偵映画の醍醐みは、容疑者たちを前に、謎を解き明かす場面に尽きるのだが、ポワロほどその立場に相応しい探偵をわたしは知らない。