閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

516 曖昧映画館~グラン・ブルー

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 世の中には奇妙な行動に熱中する人物がゐる。

 この映画の主人公である"ちびのフランス人"ジャックとイタリー人のエンゾもさうで、かれらは少年の頃から、潜るといふ行為に取り憑かれてゐる。何の為に?最初は珊瑚や綺麗な石を拾ふのが目的だつた。それは、解る。潜らなければ拾へないのだから。併しふたりは長じても潜るのを止めない。珊瑚も石も無い、光すら届かなくなる場所を目指す。

 何の為に?

 無愛想に云へば、ジャックとエンゾにとつて、より深く潜る行為はいつの間にか、何かの為といふ手段ではなく、それ自体が目的となつてゐたからだが、ここまでくると凡俗の観客(わたしのことだ)は理解どころか、想像すら六づかしい。これなら海女さんが潜る行為は、牡蠣だの海産物だのを獲る一点で、實に解り易い。

 不意にホモ・ルーデンスといふ言葉が浮んだ。"遊戯的人間"くらゐの意味か。海女さんは明かにホモ・ルーデンスとは呼べない。彼女らが牡蠣を獲るのは食べる為であり、賣る為であり、時には演じて見せる為でもある。ジャック・マイヨールとエンゾ・モリナーリ(どちらも實在のフリー・ダイバーがモデル)に、さういふ事情は無い、でなければ極端に稀薄である。

 より深く!

 かれらが望み、また挑むのはそれだけであつて、記録だとか名誉だとかは結果にすぎない。なんと無駄なことを、と呟くのはこちらの勝手として、その無駄に取り憑かれ續けるのはまことに"遊戯的"な態度ではあるまいか。

 併しその熱情をどうしても理解出來ないひともゐる。ジャックに惹かれ、エンゾと友人になつたジョアンナ。ごく健康的な女性である彼女は、フリー・ダイブをスポーツとして理解したと思へる。大半のダイバーにとつてそれは正しい。

 ジョアンナの不幸は、第一にホモ・ルーデンスをおそらく知らなかつたこと。第二には女性であることで、いやこれは蔑視ではない。女性は自らの体内に海を持つてゐる。フランス人とイタリー人が

 「潜る為に潜つてゐる」

と云つたところで、言葉としての理解は兎も角、實感は伴はないにちがひないし、さうだつたとしてもジョアンナを責めるわけにはゆかない。

 エンゾが死ぬ。ダイブの事故である。ジャックに較べれば世俗的で、兄弟を愛し、マンマには頭の上がらないイタリー男は併し、命が尽きる直前、ジャックに

 「矢つ張り、海がいい」

と呟いて、海に葬つてくれと願ふ。ジャックの隣でそれを聞いたジョアンナは、きつとその瞬間、悟つたのだらう。エンゾの遺体と共に潜らうとするジャックに告げる。

 「子供が、ゐるのよ」

彼女の体にある海に、新しい命がある。それを知つたジャックは何を思つたのか。かれはホモ・ルーデンスとして、エンゾを連れ、海へ行く。

 今になれば、ジャックとエンゾが向つたのは、胎内…原初の海だつたのかとも思ふ。だとしたら死の果てにあるのは、綺羅きらしい生命といふことになる。