閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

523 夕陽いろの生姜焼き

 豚肉の生姜焼きならまづい筈はない。

 田中宏といふ人物がゐる。安政六年生れの薩摩人らしい。獸医學博士。東京帝國大學教授。専門は家畜の解剖學と養豚の技術。随分と喰ひ意地の張つた學者らしく、大正二年に『田中式豚肉調理二百種』と題した本を出版してゐる。題名から察して、豆腐百珍や卵百珍の系譜を引継いだのか。残念ながらこの稿を書いてゐる今、國立國會図書館のデジタル・アーカイヴでは公開されてゐないのだが、田中博士の著書にある"生姜炒"がどうやら、豚肉の生姜焼きに触れた文献のごく初期に当るらしい。

 絲に切つた豚のロースと生姜を、ラードで炒つて、味附けは醤油と味醂

 脂のしつこさと、生姜のさはやかさが、甘辛く纏まつて、うーむ、こいつはごはんに適ひさうだ。"生姜炒"とあるくらゐだから、おかずの主役といふより、佃煮に近い位置附けだつたのではなからうか。

 併しまた帝大の教授が豚肉料理を二百種ねえと呆れてみたくもなる。かれは明治十五年に駒場農學校を卒業してゐるから、その前に上京して、薩摩では見たこともない食べものに触れた筈である。こげに旨かモンは喰つたことがなか。と思つたかどうかは知らない。ただ明治初期の青年に見られる、ある種の志を抱いただらうとは想像してもいい。田中青年の場合、きつと肉食…畜産で國を豊かにせねばならぬと考へたのではないか。手放しにはなれないにしても、確かに明治には偉大な一面があつた。

 そんなことより博士が何故、豚肉の調理に膠泥したかといふ点を…いや頭を捻るまでもない。かれが薩摩人だからにちがひない。多分に印象で云ふと、薩摩國は源頼朝が政権を開く前から半ば獨立した地域だつたから、中央が押しつけてきた肉食への禁忌感覚は薄かつたと思へる。博士の両親も祖父母も、遡つたご先祖も、当り前に豚肉を食べてゐただらう。本人だつて豚肉に馴染んでゐた筈で、明治帝の朕ハ是ヨリ大キニ肉ヲ食スだつたかの宣旨と、西洋食の急激な流入と、それから自分の學んだ家畜と畜産の知識が、豚肉と生姜とラードのやうにひとつとなつて、著作に繋がつたと考へるのはどうか知ら。何しろ解剖が専門でもあるし、肉を捌く苦心は感じなかつたと思はれる。

 ただ博士には気の毒なことに、その生姜焼きが広まつたのは昭和廿年代の半ば以降らしい。東京は銀座の某店(現在も営業をする、まあ呑み屋兼めし屋)が、出前に素早く対応する為に用意したのが、えらく人気になつたのだといふ。成る程、たれを用意しておけば、後は豚肉と玉葱を炒めるだけで済むから、調理の手間は掛からない。いいところに目をつけたなあ…と云ふのは皮肉ではない。手早く作れて旨くて廉なら第一級のメニュと云つてよく、"コダハリの何々豚を使つたボーク・カットレット(お味噌汁と小鉢附で千二百円)"なんぞより余つ程好もしい。

 ところで銀座の某店の店主は、どこから生姜焼きに辿り着いたのだらう。漠然とした伝説では、店主の修行時代、師匠が作つた豚のロース肉を醤油のたれに絡めて焼いたのに感銘を受けたからださうだが、本当か知ら。嘘ではないのは 無論として、当時の修行でその"醤油のたれ"の秘密を教へてもらへるものだらうか。わたしがその師匠ならきつと、食べて盗めと云ひさうな(そんな風習があつたのか、知らないけれども)気がする。そこで浮ぶのが我らが田中博士の『田中式豚肉調理二百種』である。店主の修行時代から四十年ほど前のあの本には既に"生姜炒"が載つてゐる。昭和廿年代なら大學教授の肩書は現代よりぐつと重かつた筈だから、(後の)店主が目を通した可能性はゼロと云へまい。さういふドラマチックな裏話の有無は兎も角、豚肉の生姜焼きが定食界で揺ぎない強豪の地位を得てゐると云つて、疑念や反論の聲はあがるまい。定食に限らず、豚に限らず、ごはんに適ふ肉料理で撰手権を開催しても、八強は間違ひない。詰りうまい。

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 それで急に食べたくなつて、食べに行つた。徒歩三分だから行くといふほどの距離でもない。定食で。

 豚肉、玉葱、以上。

 まことに潔い。マヨネィーズが添へてあるのは感心しないが、野菜用であらう。田中博士の流儀とは異なり、生姜は摺つたのをたれに入れておく方式。銀座流か。もちつと効いてゐてもよかつたかな。評論めいた感想はさて措き、食べると果してうまい。もう少したれが濃いめで、大蒜を隠してゐたら、間違ひなく麦酒が慾しくなるところを、上手に纏めたと思ふ。口惡く云へば予想通りでもあるが、この場合は安定の意味でとらへるのが正しからう。

 豚肉の生姜焼きならまづい筈はない。

 といふ数少ない世界の眞實は、わたしが平らげたことで證明を加へた。帰宅してから画像を確めたら、夕焼けのやうな色だつたから驚いた。田中博士への敬意なのかと思つたが、博士が夕陽の景色を好んだのか、わたしは知らない。