閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

524 好きな唄の話~An die Freude

 九曲あるベートーヴェン交響曲で、一ばん有名なのは、最後の第九番だと思ふ。都市伝説だと、コンパクト・ディスクの収録時間(おほよそ七十四分)は、カラヤンが棒を振るベルリン・フィルの演奏時間にあはせたといふが、まあ嘘…伝説でせうね。似つかはしい気もするけれども。

 その第九番の最後、第四樂章の合唱を"歓びの唄"、或は"歓喜の歌"と呼ぶ。シラーの詩にベートーヴェンが少し、手を加へてゐて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は、年末に聴く機会が多いのではないか。わたしもさうである。

 今回初めてざつと日本語訳に目を通した。神を信じ、また鑽仰するひとでなければ、一言半句も書けないと思つた。揶揄する積りではなく、さういふ言葉の連なりを音で包み込んだ作曲家の偉大さを、我われは鑽仰しなくてはならない。

 

 尤もこの"歓びの歌"をちやんと聴いた経験を持つひとが、この國に果して何人ゐるものやら、甚だ疑はしい。ちやんとと云ふのは、第九番を最初から聴いたかどうかで、正直に云へば、わたしは一ぺんしかない。カラヤンベルリン・フィルコンパクト・ディスク版。これも正直に云へば、第四樂章が始まるまでは、たいへんに辛かつた。小聲で呟くと、やうやく始まつたかといふ歓びが、"歓喜の歌"の由來かと勘違ひをしたくらゐで、まつたく失礼な話である。

 念を押して云ふと、シラーにもベートーヴェンにも責任が無いのは改めるまでもない。こちらの器が小さすぎた。いや更に小聲で附け加へると、もしかするとカラヤンがあはなかつた可能性はある。後年になつて(第九番ではないが)ヤンソンスクライバーの棒を聴くと、實に快かつたもの。カラヤンが偉大な指揮者なのを認めるのは当然だが、ああいふ精密な(精密すぎる)指揮が耳にあはないのだから仕方がない。なので令和二年の年末は、好みの指揮者が振る第九番の"歓喜の歌"を聴かうと思つてゐる。