閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

532 番附け

 我われのご先祖…江戸人は番附け作りが好きだつた。櫻の名所やごはんのお供のやうに眞つ当なのから、お茶屋の娘、果ては遊女番附けといつた怪しからぬものまで、何かといへば作つてゐて、あれは大した工夫だつたと思ふ。

 云ふまでもなく番附けは相撲からの応用だが、残念ながら江戸人の獨創ではない。過去に歌合せといふ宮廷の遊びがあつた。歌人が左右に分かれ、ひとつの題で一首を詠み、判辞で勝敗を決める。この対決の形式が相撲節(スマヒノセチと訓む。天子に力士のちからを奉る神事で、現代の大相撲本場所の遠い原型)からの援用だつた。尤も判定は"持"即ち引分けが多かつたさうで、その後宮廷人が歌人番附けを作つたわけではない。こつそりあの歌は従三位くらいの値うちはあると褒めそやした可能性はあるけれど。

 相撲(節)には遊びに転用出來る儀式的な要素がふんだんにあつた。興行としての相撲が成り立つたのは十七世紀半ば以降で、そこに(濃淡は兎も角)、宮廷節會の要素が含まれてゐたらうと考へるのは、をかしな話ではない。

 鹿爪らしい仕草を観客は面白がつたらうな。

 荘厳は一歩ずれると滑稽と直かに結びつく。

 江戸人がさういふ理窟を知つてゐたとは思へないが、権威を揶揄ひ、皮肉を飛ばす愉快は理解してゐたにちがひなく、それを實用的(なのかどうか疑念の余地はある)遊びに転化させたのは、娯樂の多少を差引きしても、あいつら、巧いこと考へたなあと手を拍ちたくなる。

 たれだつたか、ある批評家が番附けの形式を、ボクシングやテニスやサッカーのやうなひとつの系列での順位でないのがいい、と褒めてゐた。現代の番附けで云ふと最高位は横綱だが、東西にふたり…遊びの番附けならふたつ、置けるといふのが根拠。

 上の大意を翻訳すると、肉料理番附けを考へる場合に、たとへば東の横綱にとんかつ、西の横綱にはビーフ・ステイクを撰べる。一系列の順位附けだつたら、どちらを上位に置くかで激論にならうし、決着も附かないだらう。東西に分かれてゐれば、さういふ心配は不要になつて、中々具合がいい。江戸人の番附けは出版物だつたことを思ふと、讀者の機嫌を損ねる…賣上げが落ちる心配が少くもなるから、實利的な手法であつたとも云へる。

 さうなると、他の國にかういふ形式の出版物…遊びがあつたのか(あるのか)が気になる。ボクシング式で廿世紀ミステリや映画のランキングを目にするのは珍しくないが、番附け式の複数系列になつてゐるのは記憶に無い。印刷の技術に目を瞑れば

 女神と男神の神像番附け(古代ギリシア)

 オリエントとオチデントの美味番附け(古代ローマ)

 幸か不幸かの効能がある咒文番附け(古代インド)

があつても、不思議ではなささう…と書いて番附け形式が成り立つのは、一にして全、全にして善を兼任する絶対者を持たない地域に限られるのではないかと気が附いた。キリスト教的なGodの意味だけでなく、強烈に獨裁的な國家…獨裁者が善なのかはさて措き…で、揶揄と皮肉をたつぷり含みかねない遊戯は赦されない筈だもの。

 であれば多くの神々が跋扈してゐた古代のギリシアやローマやインドからさういふ気配を感じないのは、また別の要因があることになる。厭な云ひ方をするなら、文化的な土壌のちがひなのか。優劣の話でないのは念を押しつつ、そのちがひについては踏み込める知識を持たないから控へる。一方で現代の我われが目にするのは、ボクシング式の単純なランキングが殆どになつてゐる。この変化は何を指してゐるのかと思ふに、ボクシング式のランキングを"単純"と見るのではなく、"厳密"と捉へれば判りさうな気がした。順位を正確に附けるのは、それらの値うちを精密に比較し、評価するから出來ることで、まことに近代的な態度と云つていい。

 併し、近代の厳密緻密には、堅苦しいといふか、息が詰る感じもする。その厳密緻密に基づく公正が、近代社会の重要な要件なのは知つてゐるし、判つてもゐる。但し判つてゐることと、それを(無條件で)受容れることはまつたく別の話であつて、精緻頑丈計りでは窮屈で仕方がない。さう考へた時に、番附けのいい加減…訂正、大らかは思ひ出して損になるまい。巧く作ればラジーやイグ・ノーベルとはまた毛色の異なる冗談にもなりさうだが、何しろ本來は遊戯である。緻密の代りに洒落つ気がつよく求められる。その洒落つ気に教養を兼ねたひとが、さて現代の我が國に何人生き残つてゐるものやら、六づかしいと云はざるを得ない。