閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

534 我儘拉麺

 若い頃…と云へる年齢になつて何年経つたものか…は、呑んだ後にラーメンを啜ることが少からずあつた。夜中に開いてゐるラーメン屋なんて、大してなかつたし、そもそもが醉つてゐるから、旨いもまづいも判らなかつた。味を覚えてゐないのだから、特段に旨くもまづくもなかつたのだらう。

 今ではそんな気分にならない。醉つた帰りに慾しくなるのはもり蕎麦で、それも安つぽい立喰ひがいい。つゆに温泉卵を割り入れて啜りこむ。藥味を使ふなら七味唐辛子。蕎麦の香りだのつゆの味はひだのは、この場合、冷たさの脇役となつて、立喰ひだから出來る暴挙とも云へるか。

 随分と以前に無くなつた串焼き屋で、袋入りの即席麺を出す店があつた。野菜炒めや半熟卵を乗せ、ソップにも少し手を加へ、二百五十円か三百円くらゐだつたと思ふ。二へんほど喰つたが、決して惡くなかつた。流石につまみに出來はしなかつたけれども。

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 周章てて念を押すと、この画像はその袋麺ではない。ラーメンとも呼び…書きにくく、拉麺とここは記す。字の用ゐ方が正しいかどうかは兎も角、わたしの気分に適ふからで、これにはちやんと理由がある。臺灣…臺北風の云はば湯麺だからで、勿論多分に日本人の舌へあはせてはゐるのだらうが、所謂ラーメン屋で食べられるのとは異なる味はひだつた。

 そんなら何がどう異なつたのか、と疑問を感じるのは当然で…正直なところ、出汁の取り方がちがふのか知らと思へる以上は判らない。お店を切盛りする小母さんの話だと、臺北ではトマトで出汁を取つたりもする(我われの考へるトマトのソップに近いと思はれる)さうだから、出汁といふものの捉へ方自体が異なつてゐるのか。

 といふささやかな考察は横に措いて、この拉麺が旨かつたのは確かである。ことに野菜の炒め方が巧妙で、火と油の使ひこなしなのだと思ふ。軟かく煮た豚肉には八角だらうか、わたしには馴染みの薄い香り附けがされてゐる。鼻につくほどではないとしても、中華で用ゐる香草香料が苦手なひとは気になるかも知れない。

 目玉焼きを使つたのには驚いた。画像では見辛いけれど、左下に沈んでゐる。白身に火はしつかり通つてゐるのに黄身は半熟。熱いソップのお蔭で広がらないのが、寧ろ宜しい。率直なところ、奇妙に感じたが、臺灣で生卵を食べる習慣はない筈だから(小母さんに訊かなかつたのは失敗だつた)、麺類に玉子を悦ぶ我われへの気遣ひだつたとも考へられる。

 

 ところで。

 ここからは半分くらゐ自慢話になる。

 なので自慢話がきらひな方々は讀まない方がいい。

 その臺北呑み屋の小母さんに、わたしは顔を覚えてもらつてゐる。なので多少の融通をきかしてもらへる。拉麺に融通も何もと思ふのは間違ひで、詰り旨いのはいいけれど、ここの料理は、こちらの胃袋に些か量が多い。食べきれないのは勿体無いから、ちよいと少な目にしてもらふなんて、出來ますかと頼んでみた。さうしたら

 「いいですよどれくらゐにします」

と云つてくれた。有難いなあと少し考へ、麺を半分ほどにしてもらつた。かういふ我儘を云ふには、それなりに通つて、よいお客だと思つてもらはなくちやあならない。どうです、わたしが紳士といふ、(間接的な)證明でせう。尤も正直なところ、この我儘は失敗だつた。減らさなくても十分に旨い拉麺だつたからで、この辺りの讀みのあまさは大きに反省しなくてはなるまい。