閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

546 漢らしいと云へば漢らしい

 最近は殆ど食べないからよく判らないのだが、大体四百円とか五百円も出せば、牛丼は食べられる筈である。

 廉ですな。

 天丼やかつ丼、親子丼と較べて、格が二つ三つ、落ちる感じがする。

 鰻丼を別格、例外に、現代の我われが食べる丼ものの大半は明治に出自がある。いちいち具体的に調べるのは面倒だから、ここでは踏み込まないが、牛丼も明治生れの丼族なのは間違ひない。牛鍋からの派生かと思ふ。

 

 そんならどうして牛丼だけが格落ちなのか。

 四ツ足に対する厭惡感はあつたと思はれる。

 尊敬する内田百閒は幼少時、滋養の藥として牛肉を食べさせられた後、口内の匂ひを消す為、蜜柑を幾つも食べさせられたと書いてゐる。備州内田家は造り酒屋だつたから、穢れを忌避する感覚は強かつただらうが、同時代の人びとも大して変りはなかつたと考へていい。ここでかつ丼も四ツ足だよと指摘される筈で、その通りだとも思ふ。ただかつ丼は洋食出身の分、禁忌の感覚が薄められてゐたとも思はれる。

 

 牛丼には安直の印象がある。

 牛肉の切れつ端と玉葱を甘辛く煮込めば出來るでせう。

 天丼のやうに揚げる工夫も、親子丼のやうな煮る技術も要らないんだもの。

 實際は兎も角、そんな雰囲気は濃厚に感じられる。仮に松阪牛の赤身の切れ端に、淡路島の玉葱と銚子の醤油、それから新潟のお米で牛丼を作つたとして、千円くらゐが精一杯だらうし、その値段ならもう千円気張つて、ちよいと豪華な天丼を奢りたくなる。隠さなくたつていいですよ。貴女もきつとその筈だし、その気持ちは正しい。

 

 更に牛丼は誕生以來、高価な食べものにならない方向で完成に到つた。率直なところ、牛丼の頭は臓物の煮込みに近しい。口惡くそのままだと肉料理に仕立てられない中途半端な部分をどうにかする為に、濃く甘辛く煮込む手法を撰んだ結果である。漢らしいと云へば漢らしい。

 とは云ふものの、その手法を非難するのは誤りでもある。理由は改めるまでもなく、原題の牛丼がうまいからで、前段で触れた"高級牛丼"を實現させるにしても、料り方は余程に変るだらう(でないと折角の材料が活きてこない)し、完成したとしてそれは牛丼と呼べるのか、議論が沸き起るにちがひないよ。

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 議論の方はさて措き、廉で安直な丼ものは、廉で安直なままの方がいいんぢやあないか知ら。それを貫くのが(卵くらゐはまあ、追加してもいいでせう)、格下丼界で覇を唱へるのに相応しい、漢らしいと云へば漢らしい態度であらうとわたしは信じてゐる。