閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

555 鱈と馬鈴薯を手始めに

 英國の食べものと聞いて聯想するのは、ロースト・ビーフとサンドウィッチ。ドーヴァー・ソールにジェリード・イール。それからフィッシュ・アンド・チップスである。想像力が貧困にもほどがあると笑はれさうだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏だつて、その辺の事情は似たものにちがひない。
 だつて英國料理つて、まづいんでせう。
 さうなのか知ら。
 ドーヴァー・ソールとジェリード・イールは食べたことがないから措くとしても、ロースト・ビーフは旨い。サンドウィッチは我が國で随分と変化を遂げてゐる分を差引きしてそれでも、元が旨く出來てゐなけれぱ、改造する気にもなれなかつただらうとは、直ぐに思ひつく。さうなると、英國めしをまづいと決めつける態度は、誤つてゐないかといふ疑念が浮ぶのは、自然の成行きかと思ふ。

 山下洋輔の『ドバラダ門』で、フィッシュ・アンド・チップスを食べてみたいとねだる山下に、英國在住の長い知人がうんざりした顔を見せる場面がある。
 あなたまであんなものを食べたいと云ふの。
 どうやら英國のフィッシュ・アンド・チップスは、小説的な誇張を含めてもまづいらしい。不思議である。要は鱈のフライと揚げ馬鈴薯を、まづく作れるものだらうか。日本のパブで喰つたのは中々旨かつた記憶がある。
 それは日本人が作つたからだよ君。
 紳士が渋い顔をしさうだが、日本人が作つてうまくなるなら、英國人も日本式に作れば旨くなる。それが道理であつて詰り、まづいのは英國めしでなく、料り方ではないかと更に疑念が續く。これもまた自然の成行きか。
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 さてここで我われは檀一雄を思ひ出したい。あの小説家兼料理好きは、英國のスモークト・サモンやロースト・ビーフをたいへんに愛したひとでもあつた。ヒースローに降り、サボイだかシンプソンだかにタキシを走らせ、スモークト・サモンの"人工と自然の際どい融合"(凄い讚辞だねえ)に舌鼓を打つくだりが、まつたく旨さうで實に迷惑した。
 とは云へサボイもシンプソンも第一流だからね。
 旨いのは寧ろ当然ぢやあないか。
 その反論は確かに成り立つ。そこでもうひとり、吉田健一を思ひ出さう。この批評家と呑み助と食ひしん坊を兼ねたひとも、英國には縁がふかい。暗褐色のママレイドやベーコンの焼ける匂ひ、香ばしいビスケットを讚へるかれの筆致は、食べる樂みに溢れ、少くとも朝めしは英國式に限ると思はされるといふ迷惑を蒙つた。文學のちからは凄いなあ。

 かう考へれば疑念は転じて、英國めしは控へめに云つてもまづくはない。寧ろちやんと料ればうまいのだと判断して、ほぼ間違ひはなささうである。
 冷静を気取ると英國の食べものには、焼くとか煮るとか、非常に単純な調理法の印象がある。少々厭みな云ひ方になるが、素材が宜しければ、調理に手間を掛ける必要はない。詰り英國の土地は、相応に豊かだ(つた)からかと推測出來る。
 煮てから冷まして。
 細かく刻んで。
 香辛料を混ぜて塊にして揚げて。
 皿に盛つてからソースを掛ける。
 なんて手順は、想像も六づかしかつたにちがひない。
 ドーヴァーのあつち側の連中は、面倒な眞似をするねえと紳士連は捻つた皮肉で呟いたのではないかとも思ふが、かれらは、素材に頼つた簡便な調理法だと、手順を少し乱暴にした途端、一ぺんにまづくなるのを忘れてゐた。産業革命やら政争やら戰争やらに熱中したのが惡かつたのだらう。世界中に植民地を持つてゐたのはもつと惡かつた。
 料理は植民地のコックに任せればいいや。
 露骨に云ひはしなくても、そんな風に思つたと想像するのは許されるだらう。實際もさうであつた。これで英國式の伝統的な料理が萎まなければ、その方が不思議であらう。

 檀一雄に再び登場してもらふ。かれが云ふには、ひとが住み、社会の成り立つた土地には必ず旨いものがあるさうだ。でなければ住み續けられないと。
 さうかなあ。
 などと思ふなかれ。何しろロシヤのボルシチも、アラブのシャシリュークも、ドイツのザワー・ブラーデンも、ポルトガルの鱈のコロッケも等しく、旨いうまいと歓んだひとが云ふのだから、説得力が凄い。
 であればロンドンのレストランでもリバプールランカシャーのパブでも旨いものにありつけるのが道理(の筈)で、後は英國紳士がその気になるかどうかに掛つてゐる。フィッシュ・アンド・チップスはその恰好な手始めになると思はれるのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏と紳士諸君はどうお考へになるだらうか。