閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

561 甲斐國甲府

 都道府県の面積の順位は卅二位。案外と狭いから驚いた。
 山梨県
 参考までに順位のひとつ上は京都府、ひとつ下は富山県
 但し"ひとが住める範囲の面積"に限ると、順位は一ぺんに四十五位まで下がる。山岳が八割方を占める所為である。
 地図上で見ると、不恰好な馬鈴薯のやうな形をしてゐる。旧國制で云ふ甲斐國が、そのまま県の範囲になつてゐて、山國なのだなあと思はされる。

 歴史はふるい。ここで云ふ歴史は、史料で見られる可視的な記録くらゐの意味。甲斐國は律令制度下(概ね七世紀半ばから八世紀にかけて完成した)で成り立つた。但しそれ以前から住み、また支配もしてゐたらしい豪族を、大和が國造に任じ、その制度に組み入れたと思はれるから、古代は獨立した地域だつたのだらう。珍しい例ではない。上古の大和政権の"征服事業"は、(見方によつては)穏やかな政策…要するに米作をして、税を収めろといふだけの…でもあつたから、烈しい混乱は起きなかつたらう。
 畿内なら東國へ行く際の、重要な地域だつたらしい。甲斐武田氏の伸長と没落の後、天下を獲つた徳川が直轄またはそれに準じた形で差配したのは、そのひとつの證であらう。江戸を目指すには東海道を東に下るか、東山道信濃國から甲斐國を経るかだから、そこを押さへるのは理窟に適つてゐた。深く踏み込むのは本題ではないから避けるけれど、甲斐山梨は日本史を巨きな視点で眺めると(ことに源平期から戰國末期と幕末の最後の段階)、中々面白い地域なので、山梨県のウェブ・サイトが、この辺に触れないのは不思議で仕方がない。大々的に宣伝してもいいと思ふんだが。勿体無いよ。

 何の話をしたかつたのか知ら。
 ささやかな本函から、吉田健一の『汽車旅の酒』を取り出したのである。この批評家と小説家と呑み助と喰ひしん坊を兼ねたひとは、年に一度、夜行の急行列車で金沢を訪れるのがならはしであつた。シェリーや麦酒を呑みながらの列車行で、樂かつたらうな。
 (ちよつと触れると、『汽車旅の酒』はこの手帖の"本の話"で取上げてある)
 金沢は今のところ(残念ながら)訪れる機会に恵まれてゐないが、吉田にとつての金沢のやうな土地が、わたしには山梨…正確には甲府で、その話をしたかつたのだつた。
 云ふまでもなく甲府山梨県の中心にある都市。人口や経済の規模だけでなく、地理的にも眞ん中辺りに位置する。意味は"甲斐國ノ府中"で、武田信虎…晴信入道信玄の父…の命名といふ。念を押すと信虎の云ふ府中は"儂の國の中心"くらゐで、國衙(律令國の地方政府が置かれた場所)を指すわけではない。儂が甲斐を統べるのだといふ矜持の顕れだつたか。

 仕舞つた。また話が逸れる。

 甲府へ行くには、旧國鐵中央本線に乗る。外にも手段が無いわけではないが、この稿では省く。甲府を思ひ出した切つ掛けが吉田健一で、あのひとを眞似するなら、文章は無理だから、せめて呑むくらゐは見習ひたい。それで呑むには、訂正、呑むのを樂むには時間が要る。特別急行列車以外を使ふと、その時間をうまく得られない。
 尤も吉田の呑みつぷりを眞似出來るかと云へば、實は怪しい。乗車時間の長短は認めつつも、列車に乗つた早々、倶樂部から持ち出したシェリーを呑み、途中の驛で買つた麦酒を呑み、翌朝も麦酒を買ひ、列車を降りてから酒藏で呑み、懇意の宿に入つてまた呑むのだから、羨望の前に感嘆の聲が洩れてしまふ。それは文學的な誇張だらうと思へはするが、上記の本に収められた観世栄夫の一文(吉田への敬意が暖かな佳い文章です)を讀むと、どうやら誇張はごく小さなものらしい。豪傑だなあ。

 豪傑の話ではなかつた。
 さう。甲府
 霜月に行くのが例年のならはしだつたが、この三年ほど、足を運べてゐない。財布の都合と巷間の事情。がんらいが出無精だから、家に隠るのが苦痛とは云はないにしても、これだけの期間になると、何となく不満も感じられてくる。
 中央本線特別急行列車。
 新宿驛始發のあずさ號を使ふ。
 乗る前に驛構内で罐麦酒二本と葡萄酒半壜、それから幕の内弁当とチーズを買ふ。三鷹驛を通過した辺りから、幕の内弁当の蓋を開けてごはんを先に食べ、おかずをつまみに麦酒を呑む。麦酒がなくなつたら、葡萄酒とチーズを出して呑み續ける。甲府驛に着到するまで一時間半くらゐ。
 甲府に行くのは酒藏が主な目的で、併し甲府駅が最寄りとは限らない。勝沼ぶどう郷驛で降り、シャトー・メルシャンやまるき葡萄酒を訪れることがあれば、小淵沢驛で降りて、サントリー白州蒸溜所、山梨銘醸を訪ねることもある。甲府驛で降りれば、サドヤやサントリー登美の丘ワイナリーがあり、かう見ると山梨県は(失礼ながら)意外なくらゐ、酒精に恵まれた土地柄と云つていい。いつの頃からだらう。

 葡萄酒に限れば、比較的はつきりしてゐる。
 本格的な醸造が始まつたのは、勝沼で大日本山梨葡萄酒会社が設立されてからになる。明治十年。七ヶ月に及んだ西南戰争の年でもある。江戸、ぢやあなかつた、東京の大騒ぎを余所目に、優雅な苦辛をしてゐたのだな。
 山梨葡萄酒会社は僅か九年で解散に追ひ込まれるが、後の甲斐産葡萄酒醸造所(現在のメルシャン)や、まるき葡萄酒の源流はこの会社にある。もつと大きく國産の葡萄酒を遡つた源流と云つてもいい。
 ぢやあ甲府、山梨だつたのは何故かといふ疑問になつて、葡萄が好む土地…水捌けや寒暖差…だつたといふ単純な理由にあはせて、貯藏に適した気候でもあつたかららしい。さういふ見立てを最初にしたのがたれかは判らないが、我われ葡萄酒好きは炯眼に感謝しなくてはならない。

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 そこで。と話が山梨甲府に戻つてくる。
 霜月といふのはその年の新酒が出た直後くらゐになる。お祭りが終つて、訪れるひとがまばらになり、葡萄畑も枯れきつた頃であり、穏やかなのがいい。罐麦酒と半壜の葡萄酒と藏を見學した後の試飲でふはふはした頭に注ぐ陽射しには、数十日早く年の瀬がやつてきたやうな感じがされる。こんな時に観光は寧ろ邪魔になる。さつさとホテルに入り、續きに取りかかるのが望ましい。
 何を呑んでもいい。
 まるき、サドヤ、メルシャン、七賢、白州。
 吉田健一の金沢行ならそこに懇意の料理屋が手掛ける上々の食べものがついてくるのだが、こちらの立場では残念ながら、そこまで期待は出來ない。併し鶏もつ煮は廉で旨いし、信玄公に敬意を示せば煮貝があり、すこし気張れば富士櫻ポークといふ旨い豚も喰へる。"甲州富士桜ポーク"が正しい名称。定められた飼育を経て、認定基準に合格して名乗れる銘柄で、山梨県のウェブ・サイトによると、平成二年から研究がはじまり、同廿五年にブランドとして完成したといふ。飼育や検査が山梨県内に限られてゐるから、県外で食べるのは(今のところ)六づかしいと思ふ。

 と書いて、現代の山梨で味はへるのは、甲斐國造や守護は勿論、徳川譜代の大名や旗本も知らず、また想像もしなかつた種々で、遡れるのは煮貝とほうとうくらゐではないかと気が附いた。詰り飛び抜けて旨い…他國に喧伝されるほど…食べものは無かつた、と考へて誤りにはなるまい。但しそれを山梨…甲州の料理がまづいと結びつけるのも誤りで、そんなだつたら今ごろあすこは無人の地になつてゐる。
 そこにあるものを長く保存したい。
 更に旨く食べたい。
 といふ慾求はまことに当り前であるし、工夫を重ねるのもまた当然の態度でもある。それを千二百年余り續けたと思ふと、甲斐國の人びとの腰はまつたく粘り強い。さういふ樂みはお取り寄せだか何だかで實感出來るものではなく、土地の光や風や雨の匂ひを伴はなくてはならない。旅行の値うちはどうもそこに尽きるらしい。話を大きくするなら、金沢でも鶴岡でも事情は同じで、わたしの場合は偶々、甲斐國甲府がさうなんである。