閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

565 好きな唄の話~HAMO

 音痴ではない筈だが、巧く唄へるわけでもないわたしにとつて、ハーモニーを奏でられるひとは
 (おれには出來ねえよ)
といふ単純極まる理由で、羨望の対象である。嫉妬ではないから、そこは念を押す。

 ゆずといふ二人組は實に巧い。技倆の意味で云ふのは勿論として、それより、自分たちの得意の活かし方が巧い。インタヴューか何かで
 「自分たち(ゆず)の賣りはハモりだから、この唄(HAMO)では、それを思ひ切り押し出した」
さういふ意味合ひの發言を目にした記憶があつて、その記憶が誤りでなければ、わたしの推測も的外れにはなるまい。

 好みで云へば、歌詞はまあ、"ハモり"を種に無理やり作つた…色々と象徴的な言葉を使つたけれど、それが消化されきつてゐない感じがする。ファンが怒りだしさうだから、"個人の感想なのです"と、ここは逃げておきませう。

 併し上に書いたのは、この唄に限ると半ば以上は難癖である。ゆずの得意であり、技倆でもある"ハモり"を樂むには、中身が曖昧でも抽象的でも言葉がある方がいい。それは藝の妙を際立たせる調味料、材料であつて、ゆずといふ大鍋の中で意味は溶け込んで仕舞ふ。要はややこしい理窟は措き
 (こいつら、巧えなあ)
さう感心するのが、どうやらこの唄の正しい聴き方でありさうに思はれる。これは褒めてゐるから、ファンの諸嬢諸氏にはその辺をひとつ、忖度願ひたい。

 ここまで書いてひとつ、気になることが出てきた。
 他にかういふ…歌詞がハーモニーの材料に転じきつた…例はあるのだらうか。ポップス史に詳しい諸賢のご教示に期待したい。