武藏國は概ね現代の多摩と東京西部と渡る広範な地域を指す。多摩を先に書いたのは中心的な地位を占めたのが府中だからで、今も市に名前が残つてゐる。当時の江戸が貧寒な漁村に過ぎず、徳川政権最初の三代が水路を整へてやうやく、都市への一歩を踏み出したと思ふと余程に古い。
語源はよく解らない。ム+サシまたはム+サ+シらしいが、何の意味なのか。宛てられた字も幾つかあつて、訓みが先にあつたのは間違ひない。平らな土地が広がり、相模國(今で云ふほぼ神奈川)や、毛野國(同じく群馬栃木)に通じもする地勢でもあるから、上代から豪族が跋扈してゐた筈だし、畿内の政権も要衝の地と認識しただらう。
平将門といふひとが十世紀前半に関東で暴れた。下総國常陸國…今の千葉から茨城辺りが主な縄張り。畿内の支配がまだあやふやだつたのか、"新皇"を名乗つて獨立を試行した挙げ句、敗死する。将門が獨立政権を運営する器量を持つてゐたかは兎も角、高望王(桓武帝の孫。臣籍に降りて桓武平氏の祖となつたひと)の孫といふ血筋だから、"儂が東國の新たな御門ぢや"と称しても説得力はあつた筈なのだがなあ。
その将門は武藏國を訪れた。らしい。寺に梅を納め
「我が願ひが叶ふなら、その實よ、落ち賜ふな」
「その日には一寺を建立奉る」
と祈つたさうで、果して實は夏を過ぎてもその枝で青いままだつたといふ。その伝説が地名の由來になつた。現代の青梅である。本当か知ら。今の感覚で云へば、さういふ樹は伐らせるし、地名だつて別のを押しつけるだらうに。
別の見方もある。非業の死を遂げた人間は必ず祟る、といふ考へ方があつて、詳しくは御霊信仰をお調べなさい。同時代の人びとにとつて、それは現實的な問題であつた。四十年近く前に太宰府で死んだ菅原道眞がたいへんな祟り神になつたのがそれで、あちらは政争だつたが、将門は戰争である。ましてかれが梅樹を納めたのは眞言のお寺だつた。当時の凡俗にとつての眞言は霊験あらたかな咒とほぼ同じで、無碍にすれぱきつと祟り神になる。それはまつたくまづい。なので叛乱の首謀者を持上げるのは無理でも、将門信仰に目を瞑るくらゐはしたとも考へられる。
併し何故、あの武将はわざわざ武藏國は後の青梅まで足を運んだのか。佛に敬虔だつたとも思へず、政略戰略上の事情だつたのだらうか。どうも曖昧である。
下総からだと移動も面倒だつたらうに。
さう考へると、現代の我われは恵まれてゐる。新宿からざつと一時間。千葉からでも倍くらゐを見込めば青梅に行ける筈で、鐵道の發達はまことに有難い。
狭い意味での青梅…旧國鐵青梅驛周辺に限ると、住人には失礼ながら、猫と昭和レトロといふ理解の六づかしい看板を持つ田舎町に過ぎない。まづまづの呑み屋は一軒あつたけれど、十数年前のことだし、残つてゐるとしてもその一軒の為に足を運ぶのは躊躇される。
但し青梅を含む武藏國(奥)多摩郷であれば話は変る。多摩の豊かな水を使つた酒藏が三軒もあるし、その内一軒では地麦酒を手掛けてもゐる。因みにいふ。玉川上水が整備されたのは江戸徳川政権で、この大規模な治水事業は江戸の町を潤す目的だつた。徳川幕府に感じる"鄙の富農"めいた雰囲気を好まないわたしのやうな男でも、これ計りは大したものだと思ふ。結果的に後世の我われ呑み助を歓ばしてくれてゐるからではありませんよ。余談が過ぎた。
「結局のところ、そこに話は落ちるのだな」
我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の呆れ顔が目に浮ぶ。浮びはするのだが、武藏國なり下総國なり常陸國なりどこへなり足を運ぶ時に、外の樂みがあるものか。令和三年の春香梅は六づかしからうが、また酒肴を侍らす一席を設けたいものだ。将門の怨霊が顕れたら、勿論一献を奉るのを忘れずに。