閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

571 取り留めのない寧ろ妄想

 最近、"守本尊"…訓みは"マモリ ホンゾン"…といふ言葉を知つた。大雑把に十二支にそれぞれ佛さまが割当てられ、それぞれの生れ年のひとを守つてくださるさうだ。未年(南西)生れのわたしは、大日如來さまが守本尊。丑年(北東)生れの父は虚空藏観世音菩薩さま、辰年(南東)生れの母は普賢菩薩さまが守本尊で…どうも怪しいね。顕密と関係なく、佛教とは別の概念に思へる。
 カトリックにはある。守護天使または守護神使と呼ばれ、こちらは遅くても十三世紀頃には纏められてゐる。尤も我が國での受取り方はいい加減で、生れ曜日によると大天使カマエルが、誕生日を基準にすると三大天使であるラファエルのグループに属するハハヘル乃至ハハーヘル(ざつと調べたけれど、この名を持つ天使は見当らなかつた)が、わたしの守護天使になる。こつちの目に入らないところで、あの男は君の担当だと押しつけあつてゐるんではあるまいな。
 日本國でのオカルト商賣事情は兎も角、カトリックは天に坐す憐れみ深い父…ところで(旧約)聖書の神さまは、"妬むもの"と自称してゐるのだが、この辺りを教皇猊下はどうお考へなのか知ら…への帰依を促す必要があるから、守り導く存在を想定しても、不思議ではない。ひよつとすると、さういふ考へ方が我が國に輸入され、第二の神佛習合を果した結果が守本尊なのだらうか。根拠の無い憶測である。

 併し心を広く持つたとして、それでも大日如來さまが本尊ですよと云ふのは、豪儀を彼方に通り越し、非礼が呆れるやうな無理を感じる。ごく大掴みに、密教の本質そのものであつて、宇宙に遍く在り、我われを照し、また我われの内側にも在る、理と智を顕してもゐるのがこの如來さまで、何を云つてゐるか、解らないでせう。わたしも文字にしてゐるだけで、理解してはゐない。ただ特定の干支専任の本尊と呼ぶには巨きすぎる…虚空藏菩薩さまや普賢菩薩さまも同じく…ことに、疑念の余地は無い。本筋の密教者が聞けば、鼻で笑ふか、呆れて言葉を失ふか。
 その辺の草花に、その草花を揺らす風に、それを感じる我われの内に在る。理であり智であり、時に愛慾でもある。
 「それこそ大日如來と呼ぶのだ」
と考へたのは空海と見ていいと思ふ。金剛頂経の系統と胎藏界の系統があつた密教の両方を一身に承けたのが入唐僧の空海だつたからで、ふうんと笑つてはいけない。唐僧恵果がひとまづ統一した両部…金剛と胎藏…を丸々、異國の若ものが正統な継承者として持ち帰つたのである。然もその若ものは佛陀を無視して(!)、眞言宗を打ち樹てた。それは現世利益や即身成佛といふ、(見方によつては)極彩色に彩られ、高野山や根來から咜られるのを覚悟で云へば、佛教から逸脱した別の思想なのかとも感じられる。

 慌てて念を押すと、わたしは眞言宗…いや佛教全般に丸で無知な男である。従つて前段に書いたのは漠然とした…表面的な印象に過ぎない。
 その上で續けると大日如來には"まつたきもの"…カトリックで云ふデウスに近しい感じがする。これはわたし一人の勘違ひではなく、日本を訪れた初期の宣教師が
 「ダイニチを信じなさい」
と云つたのは、デウスの"日本語訳"としてらしい。後日デウスとダイニチは違ふと気が附いたかれらは
 「ダイニチを信じてはなりません。デウスを信じなさい」
大急ぎで訂正したさうだから、何となく可笑しみがある。一方で宣教師に、デウスと混同させるくらゐの、さあ何と云へばいいか、ここではごく粗つぽく偉大さとしておくと、それを大日如來が感じさせたのかとも考へられる。宣教師たちは大日如來が遍在と同時に内在することまで知らなかつたと思ふが(何しろ眞言密教は本質的に言葉で教へられないさうだから)、そこまで知つたら、デウスへの信仰が揺らいだんではあるまいか…歴史のイフは樂いが、切りがないから止めにしませう。

 ここで疑問をひとつ。空海が"大日如來といふ概念"、もつと強く眞言密教の中核を創る時に、デウス(の欠片)は参考にしなかつただらうか。空海の入唐当時、長安には景教と呼ばれたキリスト教の一派がゐたのは確かだから、多少の接触はあつたと想像する方が自然ではなからうか。
 因みに云ふ。景教は五世紀頃に異端とされたネストリウス派…イエスの神性の位置附けの議論で負けて異端となつたらしい…で、東へと移り移つて長安にまで辿り着いた。しぶとい。と同時に、信仰は兎も角、それを受け容れた唐の凄みはどうだらう。歴史上、世界帝國と呼ぶに相応しい数少ない實例に思はれる。余談が混つた。
 キリスト教側の事情はさて措き、胡人の祆教…ゾロアスター教も含めた、佛教とは異なる思想体系に、空海が興味を示さなかつたとは思ひにくい。密一乗確立の為、あれこれ訊きまはり、咀嚼し、比較しただらう。勿論かれが密教の優位に疑念を抱かなかつたのは疑念の余地が無い。とは云へ、まつたく棄て去つたか知ら。当時のネストリウス派に守護神使といふ考へ方は無かつただらうし、あつても長安で知られてゐたとは思へないが、それが組み込まれてゐれば、眞言世界は完成度と引き替へに、豊かな彩りと拡がりを得てゐたかと思へなくもない。

 以上は取り留めのない想像である。確たる根拠があるわけではないし、きつと空海には咜られる想像…寧ろ妄想であるけれども。