閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

572 旧式の特典

 GRデジタルⅡをゆつくり…謙遜でも譬喩でもなく本当に…使つてゐる。この機種は全般、本來は速撮りが目的の筈なのだが、そこは目を瞑つていい。何しろ現代の視点で見れば、化石でなければ骨董品だもの。それに速く撮らなくてもいいやと思へば、大して気にはならない。

 不意に思ひ立つて、外附けのファインダとフード取附け用のアダプタとフードを附けてみた。それでファインダを覗いたら、下の四分ノ一くらゐがアダプタとフードで隠されて、苦笑した。手元に『GRデジタル カスタムブック』(澤村徹/翔泳社)といふ、色々のアクセサリで飾り立て…訂正。この場合だとカスタマイズと呼べばいいか、兎に角そこに特化した本があつて、その本で紹介された方法の大半は、フードとファインダを併用する。といふことは、恰好はさて措き、その形では使ひにくいのかと思つた。

 恰好が大切なのは云ふまでもない。極端な話、ファインダとフードを併用しても、ディスプレイで全体を見て撮れる。姿を整へる目的で撰ぶのも、惡い發想ではなからう。勿体無い話だけれど、GRデジタルⅡは何年も前に最前線で使ふ機種ではなくなつた。その辺りを気に病む必要もないと思へる。
 そのフードは専用との別に二種類が使へる。ひとつはペンタックスのタクマー銘で、何ミリ対応かは判らない。スクエア・フォーマットなら支障無く使へる。オリンパスのズイコー28ミリ/F3.5用(ちやんと刻印がある)がもうひとつ。どちらもアダプタにステップ・アップ・リングを附けて使ひ、どちらもシルエットは惡くない。但しアダプタがプラスチック丸出しなので、所謂"統一された質感"には程遠い。
 前述の本ではその対処として、アダプタに人造皮革を巻つける方法…革巻と呼ぶのださうな…が紹介してある。一ぺんだけ、實践したひとを見掛けたことがあつて、率直なところ感心はしなかつた。何故だかはよく判らない。ちらりとしか見なかつたしなあ。それでも兎も角、アダプタ(とそれを用ゐるフード)は常用しないことにした。

 常用を留めた事情はもうひとつ、ある。ファインダやフードを附けるとケイスへの収まりが惡くなるのがそれで、この点を見落すわけにはゆかない。
 今は純正のGC-1に入れ、カラビナ・フックで吊るすことが多い。すつぽり収まるのはいい気分だが、本体だけしか収まらない。hamaのLOGO銘のポーチはひと回り半くらゐ大きくて、ファインダを附けたままで入る。そこは好もしいけれど、取り出す際、微妙に引つ掛るから困る。
 だつたらケイスを使はず、肩や首からぶら下げる方法もあるよと提案してもらへるだらうが、わたしのGRデジタルⅡに附けてあるのは、手首に通す式のストラップだから、さうはゆかない。いや急いで念を押すのだが、ぶら下げる長さのストラップだつて附けられる。それも後期のライカM5のやうな三点吊り…横縦どちらでも吊れる…で、縦に長いストラップを附けるのも似合ふ。ただ今のところ、さうしたいとは思はないだけで、提案には感謝したい。

 取り留めなくなつてきましたな。
 取り留めもないまま續けませう。

 ファインダもフードもアダプタも、大きめのポーチも、長いストラップも、常用するかどうかは別に、纏めてある。外のアクセサリ…グリップや三脚穴に捩ぢ込む手首通しのストラップなど…も同様。ただ普段持ち出すのはGC-1に入れた本体だけで、今のところは格段の不便は感じない。その気になれば、あれこれと附け替へを遊べる状態である。
 かう書くと、本体だけで不便が無いなら、それだけでいいんではないのと云ふひとが出ると思ふ。確かにその一面はある。そこは認めるが、一面なのだとも云ひたくはなる。繰返しを承知で云ふと、GRデジタルⅡには、現役でがつちり使へる余力は残されてゐない。良し惡しでなく、さうなつたんである。ただそれは使へないといふ意味に繋がるのでなく、玩びつつ、謙遜でも譬喩でもなく本当にゆつくり撮る分に、不満はさうさう出るものではない。

 ただ玩ぶことを考へた時、本体だけでは些か物足りなさを感じるのも事實(の一面)として認めたい。我ながら正直な態度だなあ。こんな場合に、使ふ保證の無いアクセサリ類が役に立つ。詰り
 「いざとなつたら、幾らでも遊べる余地があるのだ」
と思つてゐられる。"可能性を持つてゐられるのだ"と恰好をつけてもいい。変な譬へをすれば、ライカM5にズミクロンが一本あれば、大体は撮れるでせう。とはいへそれで満足するかと云へば別問題で、もつと云ふとお財布の大問題だつてある。併し一台のライカと一本のズミクロンがあれば、近いか遠いかは措いてもいざとなれば、ズミルクスやどうかすればノクチルクスでも使へる…と期待を持てる。もしかしてライカの樂みはその期待感が本質なのかも知れず、いや譬へ話がちがふ方向になりさうだ。
 第一、その"いざ"がいつ、どのように訪れるのかはまつたく判らず、ひよつとして訪れないままかも知れないが、それは関知するところではない。それに未だ手元には、ワイドとテレのコンヴァージョン・レンズが無いとも気が附いた。まあ神経質になることもなからう。寧ろ可能性、訂正、遊べる余地がまだ残されてゐると考へる方が、気持ちの健康には余程宜しい。かういふ暢気な樂みは、旧型の特典だと云ひたいのだが、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏は如何思はれるだらう。