閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

577 居直り

 常用するスマートフォンで毎日撮るのは、食べものの画像で、これは記録が目的である。常用の手帖に書きつける為の記憶の補助と云つてよく、ことに呑んだ後、何を食べ、或は呑んだかざつと判れば、その目的は達せられる。ぶれてゐても、余分なものが冩つてゐても気にせず、なので未だに食べものを上手に冩せない。甚だいい加減な態度の結果である。反省しなくちやあ。

 

 ところでその"食べものを上手に冩す"とは、どういふことなのか知ら。

 

 肉じやがを例に考へれば、馬鈴薯と牛肉の茶いろと人参の紅いろ、隠元豆の緑いろが、鮮やかなコントラストを作り、分厚くて眞つ白な鉢に盛られた冩眞を見ることがある。その鉢はいかにも清潔な布…テイブル・クロスと呼べばいいんでせうか、兎に角そこに置いてあつて、正直なところ、定食屋の店先にある(出來の惡い)蝋だか樹脂だかの見本みたいに感じられる。食べものの冩眞の目的が、食慾を刺戟させる点にあるなら、その冩眞は上手ではないことになる。

 

 併し肉じやがを、作りものめく演出を省いて撮つて、それが我われの胃袋を刺戟するかと云ふと、それも怪しい。要するに色にせよ形にせよ、食べものは被冩体に不向きなので、その辺を突き詰めると、"食べものを上手に冩す"のは、そもそも無理ぢやあないかと云ひたくなつてくる。と書くと

 「美味しさうな食べものの冩眞だつてあるよ」

と指摘されるだらう。本当かどうか、疑はしい。肉じやがの冩眞を見て旨さうだと感じる後ろには、これまでに食べた肉じやがの記憶…温かさや匂ひや味の記憶があつて、それらを(無意識に)引出してゐるのではないか。だとすれば、ある一枚が上手に冩された食べものかどうかの判断は、見るひとの主観や経験(だけ)が基準だとなるから、結局は一般論まで持つてゆけない。

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 尤もわたしはそれで困らない。最初に書いた通り、記憶の補助が目的だからで、仮に手ぶれをしてゐても、その手ぶれで、呑みまたは食べてゐた時の状況を思ひ出せる。どうかすると、同じお店にゐた美女まで思ひ出されて(呑み屋の美女は大体、翌朝までに忘れるものだ)、中々具合が宜しい。

 莫迦ばかしいなあ。

 といふ苦笑も解るけれど、我われが日常に撮るのは、殆どがその程度で十分ではないか。食べものを美味しさうに撮つてはならないわけではないし、食べものを美味しさうに撮らうと工夫を重ねるのは惡くないとも思ふ。思ひはするが、眞似をしたいとは思へない。食べものは食べてこそ食べものだからで、食べものを撮るといふ行為自体にどの程度の意味…値うちがあるか知ら。

 ぢやあ止めればいい…と決めつけるのも六づかしい。何しろ意味や値うちは兎も角、何年も續く習慣だもの。お酒と同じですぱんと切り捨てられるものではない。それに些か居直ると、記録の一点で云ふと、数は大事な要素でもある。わたしの死後、わたしの手帖やスマートフォンやパーソナル・コンピュータの中身をたれが見るかは知らないが、百年も経てばその数が案外、貴重に転じさうな気がしなくもない。まあ、居直りではあるけれども。