閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

581 外で呑みたい

 令和二年の年末からこれを書いてゐる今に至るまで、外で呑んでゐない。東下の時、東海道新幹線の車内で罐麦酒は呑んだが、あれを"外で呑んだ"とは呼びにくいし、その後は晝にたぬき蕎麦を啜つたのと、中華風(と書いてあつた)肉豆腐定食を食べたきりである。改めるまでもなく、東都に感染症事由の緊急事態宣言が出されたからで、文句を云ふ積りではなく、困つたとも思はなかつた。どこも臨時の休業でなければ、短時間の営業だと、外で呑めないのが当り前の心持ちになる。お財布だの時間だの自分の理由ではないから、精神衛生上も頗る具合が宜しい。

 尤も外で呑みたくないのかと訊かれれば、すりやあ呑みたいよと応じる。大久保の"K屋"はさう旨いわけでもないが、店長と野球の話をするのが樂い。何年振りかでに"Pこ"に顔を出すのも惡くない。中野は多くて"K魚"のお酒、"Aワ"の葡萄酒、"K船"の黑糖焼酎、"Y9"のつき出し(お猪口で出されるお味噌汁が旨いのだ)、"Aなー"の泡盛とポーク玉子。"T北"の家常豆腐。"Pニ"の金魚だつて呑みたいし、"B恵"でヰスキィを教はるのも忘れてはならず、ニューナンブといふ不逞の輩で酒宴も催したい。要するに呑みに行きたい。

 呑みに行つてどうするのだと疑念を抱くひとがゐるのは当然で、また家で呑めるのだから、それでいいではないかと感じるひとだつてゐると思ふ。一理ある。家で呑む分には廉で済む上、周りに気を使はなくてもいい。何より醉つたら直ぐに眠れる。経済で気樂なのだから、わざわざ外に出るのは莫迦げた態度ではなからうか。改めて一理ある。そこは認めてもいいとして

 「呑むのに一理は要るか知ら」

といふ疑念は残る。こんなことを云ふと、生眞面目な讀者諸嬢諸氏から、そんなだから丸太は駄目なのだと厳しい叱責が飛ぶだらうが、周辺の呑み助に訊ねてみ玉へ、きつとわたしに同意を示すから。

 念を押すと理窟…合理性と呼んだつていいが、呑み助はそれを無視してゐるわけではない。かれら、訂正、我われにとつての理窟乃至合理性は何を呑み、また何をあはせるかで、それが経済だのではないだけの話である。いや経済に目を瞑れるほど、お財布が分厚いのでもないのだけれど、そこはプライオリティ(とカタカナ言葉で誤魔化さう)がちがふ。

 更に念を押すと、家で呑むのを拒むのでもない。気に入りの銘柄に、肴をちよいと気張つて、日の暮れる前から呑み出すのだつて、惡い趣味ではないもの。但したつた今、令和三年の彌生といふ、例年とは些か異なる現在に限ると、気張り具合は兎も角、家では散々に呑んだ。呑んでゐる。飽きはしないが気分は変へたい。

 とは云つたつて、どこで呑んでも、たとへばサッポロの赤ラベルなら赤ラベルの味だらう、と考へるのは(一面の正しさがあるのは認めるのに吝かではない)浅薄な態度と云はざるを得ない。家で呑む赤ラベルと呑み屋の赤ラベル

 「何となく、ちがふ」

のは確である。ただその"何となく"を文字…言葉にするのは六づかしく、但し優劣の話でないのは云ふまでもない。春と冬で異なるのは当然だし、鯖の味噌煮の罐詰やマーケットの唐揚げをつまむのか、上手の手になる焼き鳥なのか、揚げたてのミンチカツなのか、愛しのあのひとが用意してくれた特別な一品なのかで、味はひをちがつて感じないとしたら、そのひとはそもそも呑むのに向かないのだと思ふ。

 何の話をしたかつたのか知ら。

 さう、外で呑みたいといふ話。

 残念ながらまだ軽々と表には出にくい。では呑みに出たぞと云つても咜られなくなるだらう時期…春は終り、初夏の気配を感じる頃だらうか…呑みに出るとしたら。現實的な空想である。なので中野に行く。空腹に酒精を入れるのは好きでないから、もり蕎麦を一枚、啜るところから始めたい。空腹でなければ省略する。最初は"K屋"か"Tニ"…それより"Pニ"に行かう。あすこはつき出しに工夫があるし、金魚がうまい。焼き餃子か鶏天麩羅を食べる。両方にしてもいいが、お腹がくちくなり過ぎると後で困りさうだ。それで二杯か三杯呑んだら、近くにある"K船"に移る。ここのつき出しは旨い上、量もたつぷりあつて、十分なつまみになる。黑糖焼酎を水割りで二杯。肌寒い日ならお湯割りでもいい。がしや豆といふ落花生を黑糖でどうかしたのも頼みたい。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にこつそりお知らせすると、がしや豆と黑糖焼酎は案外なほど似合ふ。

 この後が悩ましい。"T北"で湯麺を食べるにはまだ早く…困つたことに、ここは早くても廿一時を過ぎないと暖簾を出さない…、帰るのも勿体無い。ひと驛動いた"Lノ"の葡萄酒を経て、"Rロ"に寄るのもいいが、それも面倒な気がする。中野に留まらう。"K船"の気分が保たれてゐたら、"Aなー"で泡盛を呑むのがいい。さうでなければ"Y9"を覗いてみる。越南人のエフさんが担当ならしめたもので、お酒に厚揚げと菜つ葉をさつと焚いたのだの、蛸の酢のものだの、うまい肴にありつける。お酒だけでよければ(但しチーズの味噌漬けはたいへん宜しい)"K魚"に入るのも考へられる。でなければ"B恵"でギネスとソーダで割つたヰスキィ、"Aワ"でティオ・ペペをトニック・ウォーターで割つたのをゆつくり呑む手もある。シェリーはアペリチフだよと呆れるひともゐるだらうが、この呑み方なら、ディジェスチフ…いやこの場合だと、〆の一ぱいにもいいのです。

 まあ別に上に書いた順序に膠泥する必要はない。話が広がりすぎるから省略したが、甲府や熱海、或は宇都宮まで足を伸ばす方向もある。そこをさて措いて細々しいことを書いたのは、馴染んだ(お店の側がどう思つてゐるかは知らない)場所を幾つか巡るのに、都合がよささうだからで、もつと云へば、一晩でどうかうするのは勿体無い。お酒でも葡萄酒でも焼酎でもヰスキィでも、何かしらつまめるものがあるのがわたしにとつては望ましい。上のお店は旨いつまみが共通点で、つまみが佳ければ呑むのも旨くなる。呑むと醉ふのは当然の結果で、それならいいが呑み過ぎると醉ひも過ぎて、折角うまいものが目の前にあつても、その辺が曖昧になりかねない。こまる。そこを調へるのが立派な大人だと云はれたらその通りだけれど、大人ではあつても立派ではない男はどうすればよいのか。さう頭を悩ませながら、外で呑みたいと思つてゐる。