閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

592 たこつながり

 ソーセイジの片側に切れ込みを入れて炒めると、皮と肉の収縮が異なつてゐるから、切れ込みを入れた箇所が反り返つて開く。"タコさんウインナー"の名前で知られる飾り切りの一種で考案は尚道子。切つ掛けは判然としないが、家族を喜ばす為だつたらしい。この"タコさんウインナー"はプリマハム登録商標で、製品のページには®が附いてある。但しそこでは尚道子にまつたく触れてゐない。プリマハムが商標を得た事情は兎も角、感心は出來ないねえ。敬意を示しても損にはならないと思ふよ。

 

 東京中野の某居酒屋(ごく小さな店)にゐた店長と仲良くなつたことがある。廉価が賣りの串焼きチェーン店で、メニュのひとつに"赤ウインナの串"があつた。当り前に赤ウインナを三つか四つ串に刺し、薄く塩胡椒を振つて焼いたやつ。焦げを少し附けるのがこつらしく、酎ハイに中々似合つた。ある時その"赤ウインナの串"を註文したら、店長が何を考へたのか、"タコさん"に切つて焼いてきたから、大笑ひした。何しろ横並びだつたもの。まだ"タコさん"に®のマークが附くとは知らなかつた頃の話。

 

 ソーセイジと云へば眞つ先に浮ぶのはドイツだが、わたしの知る限り、ドイツ式のソーセイジ料理で、"タコさん"のやうな姿で仕立てる例は無い。こちらも知る範囲に限つて云ふと、ゲルマン人は蛸を食べる習慣を持たないのだから、当然の仕儀であらう。尤もあの飾り切りをティンテン・フィッシュではなく、ブルーメと見立てることは出來る。玉葱だと花のやうに開いたフライ(丸々一個を使ふ)があるのに、ソーセイジで試さなかつたのは、ゲルマン的な頑質の顕れか。

 ラテン…地中海人は食べる。境界はざつとアルプスの大山塊群で、ローマ人の云ふガリア・チザルピーナ("アルプスを区切りに、ローマ側のガリア"くらゐの意)以南では蛸を喰ふと見ていいと思ふ。このちがひはごく簡単に、蛸が獲れたかどうかにあるらしい。例外と云へるのはユダヤ人で、かれらは"鱗を持たない魚を食べてはならぬ"といふ戒律を持つてゐた。きつと今もさうなのだらう。外にもたとへば鰻の扱ひは同じださうで、ユダヤの神さまはきつと、蒲焼きをご存知なかつたのだらう。それとも、ブリタニアのジェリード・イールを食べて、これあ駄目だと禁止を決めたのか知ら。

 

 鰻の話ぢやあなかつた。

 蛸といふ字は、をかしい。海の生き物なのに虫偏が使はれてゐる。幾らなんでも、あの奇妙な生き物を虫の類と見間違ひはすまい。それで念の為に確めると、タコは鮹とも書くと判つて、どうもこつちがタコの意としては正しいらしい。虫偏のタコは元々、蜘蛛を指したといふ。肖は"似てゐる/似せる"の意。六本足の虫に肖た八本足の生き物、蜘蛛に蛸の字を宛て、海にゐる蜘蛛のやうな生き物には海蛸(子)の字を宛て、最終的には魚偏の鮹の字が作られたといふ。併し不思議なのは、中國料理で蛸乃至鮹を使ふ例が見当らないことで、いや中國料理と呼べる範囲が、どの辺りまでかといふ疑問はあるとしても、かれらは基本的に大陸の人びと…ガリア・チザルピーナ的ではなかつたのだな。

 

 世界人類を、蛸(ここからはこつちの字を用ゐますよ)を食べる人びととさうでない人びとに分割すると、我われは前者に含まれる。"タコさんウインナー®"を編み出す程度には馴染みが深く、茹でて焼いて揚げて烹て、時にはごはんに混ぜ込み、或は吸盤を珍とする。残念ながら地中海人に知合ひはゐないが、あちらにも土地柄に似合ひの蛸料理があるにちがひなく、かれらとはこの一点で固い握手が出來る。さう云へば広さの違ひを別として、瀬戸内と地中海は似てゐる(温暖な気候と多くの島々と豊かな漁場)と思はれる。蛸食が共通するくらゐ、奇妙とは呼べないのかも知れない。

 

 ところで。世界の蛸喰ひ諸氏に伺ひたいことがある。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏、瀬戸内の漁撈民、倭人だけでなく、ギリシア人やローマ人、南のガリア人、カルタゴ人、ヒスパニア人(かう書くと、如何にも視野が広さうでせう、えへん)も、蛸それ自体を旨いと思つて食べてゐるのだらうか。正直に云ふと、わたしはさう思つてゐない。胡瓜と若布と蛸の酢のものなんて、大好物なのに、何度食べても蛸の味がどうだつたか、記憶に残つたためしがない。困つた時は吉田健一に頼るのがいいから、『私の食物誌』を捲つたら、"大阪のいいだこの煮もの"といふ一文があつた。

 

 小さな蛸でもちゃんと頭は頭、足は足の味がして頭に小さくて形が米粒に似たものが入っていてこれが殊に旨い。

 

 成る程と思つたが、吉田が褒めてゐるのは頭の"小さくて形が米粒に似たもの"で、蛸そのものの味ではない。そこから数行讀み進めると

 

 一体に蛸と言うのは烏賊のような甘味もなくて、それではどんな味がするかと言われても返事のしようがない気がするが、そこに何か特色があるとすれば味よりも歯触りでこれを柔く料理することでその歯触りも生き、そしてそうすることでどういうのか煮汁の味が中にも染み込んで確かに蛸であって蛸であることで樂めるものが出來上る。

 

と續く。ひとつのセンテンスで、完璧に纏めてあるのは文藝の力といふべきか。それにこの批評家兼小説家は道噸堀のおでん屋で、銅壷から出される蛸の足に舌鼓を打つたひとでもあるから、説得力が凄いよ。何とか正宗のお燗を呑みつつ、こんなことを考へてゐたのかと想像すると、こちらも愉快な気分になるが、そこはさて措き、吉田は蛸の味自体ではなくて、煮汁だの出汁だのの味が染みて活きてくるその歯触りを歓んでゐる。わたしは同意を示したいし、ギリシア人以下の地中海人も同じではなからうか。意地惡く考へれば、北方のゲルマニアブリタニアでは、歯触りを樂む為の食べものといふ"贅沢"が許される土地柄ではなかつたのだな。尤もその分、獸肉や内臓の料り方に工夫が凝らされた筈で、比較は出來ないけれども。

 

 引用しつつ思ひ出すと、胡瓜と若布と蛸の酢のもので、わたしを歓ばしたのは確かに、二杯か三杯か塩梅の宜しきを酢を得た蛸の柔かな歯触りであつた。かういふのを肴にするなら濁り酒が望ましく…いや踏み込むのは我慢しませう。地中海人はきつと酢のものを知らないだらう…と思つて檀一雄の『美味放浪記』を讀むと、ポルトガル人は塩茹での蛸を

 

 大まかにブツ切りにして、玉葱や、トマトや、ゆで卵の白身なぞと一緒に、酢とオリーブ油で和える。

 

さうで、大まかなブツ切りは兎も角、かういふのをつつきながら呑む葡萄酒は、さぞ旨からう。もしかしてポルトガルからは、鐵砲や天麩羅や金平糖だけでなく、酢のものまで渡つてきたのか知らとも想像したくなる。酢漬けなら長い航海でも保存が利くだらうと思つて云ふのだが、まつたく調べてゐないから、信用してはいけない。第一、料理や調理法の發祥なんて、興味の対象にはなつても、大体のところは曖昧に沈み込むし、はつきりしたところで旨いまづいとは無関係である。そんなところで頭を捻るくらゐなら、地中海人と刺身や揚げたのは勿論、ポルトガル式酢のもの、その他諸々を並べた蛸尽しの宴席で、お酒と葡萄酒をやつつける方が余程、有意義だし、愉快に決つてゐる。さうさう。その場には、"タコさんウインナー®"も忘れてはならない。