閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

593 こだま號に食堂車を

 食堂車に乗つたことがない。寝台車はないが、夜行列車はある。かう書くのは少々をかしい。食堂車は意図して乗るのではなく、聯結された車輌に足を運ぶ性質だからで、さう考へると、食堂車を利用したことがないとするのが正しい。

 少年の頃、毎年の夏休みに若狹…福井県まで二泊三日の海水浴に行くのがならはしだつた。大阪から福知山までは電車で、乗り換へてからヂーゼル機関車に引つぱつてもらつた。食堂車を用意した編成ではなかつた。

 新大阪から名古屋まで東海道新幹線に、新大阪から岡山まで山陽新幹線に乗つたこともある。こちらは親戚を訪ねるのが目的で、どちらもこだま號だつたと思ふ。当時だから、新幹線はゼロ系のひかり號とこだま號だけだつた。食堂車はあつた筈だが、利用した記憶は無い。

 理由ははつきりしてゐて、その頃のわたしは、乗り物醉ひがひどいたちだつた。ことに車…正確には車内の匂ひがまつたく駄目(今に到つてもその傾向はある)で、それを熟知する両親が、電車でも用心したのだらう。福知山からのヂーゼル機関車では客車の窓をたつぷり開けて、稲の青い匂ひを吸つてゐたのを覚えてゐる。

 廿歳を過ぎた辺りから、東海道新幹線で東京まで行くことを覚えた。のぞみ號の運用が始まつた頃と思ふ。確めはしなかつたが、この編成に食堂車は聯結されてゐなかつたのではないか。同じ時期のひかり號やこだま號はどうだつたか、乗つてゐないから解らない。さういふ事情の積み重ねで、食堂車を知らないまま、齢を重ねて仕舞つた。その内に食堂車自体が無くなつて、勿体無いことをしたと思ふ。

 

 食堂車を廃止した鐵道會社にも云ひ分があるのは解る。かれらにとつては、速さと値うちが一体だし、同じ編成なら出來るだけ多くのお客を乗せたいに決つてゐる。速く走れば食事を提供するまでもなく、合理的な判断と考へられる。

 といふ理窟に理解を示すのはいいが、全面的に受け容れられるかは別である。ゆつくり走れば、そのゆつくりもサアヰスにな(り得)る。さういふ編成は現代でも無くはないが、優雅でラグジュアリな特別急行列車しか見当らない。優雅やラグジュアリが駄目とは云はないが、それはは兎も角と思ふ身としては、些か気に喰はない。

 などと云つたら、食堂車のめしなんて、割高だし大してうまくもなかつたぜ、とヴェテランは笑ふだらうか。すりやあまあ、さうかも知れない。そこを認めるのは吝かでないとして、そこを問題にするのは間違ひでもある。列車…電車でもヂーゼル機関車でも新幹線でも、そこで揺られながら、麦酒をやつつけつつ(内田百閒なら魔法壜入りのお燗、吉田健一だと倶樂部で仕入れたシェリーだらうか)、ちまちまと食べることが嬉しいしまた旨くもある。その樂みが車輌の形を取つたのが食堂車と思へば、酒藏や麦酒工場に併設されたレストランくらゐの味と値段なら満足に値する。

 かう論じてもヴェテランは、はなツからちよつと気張つたお弁当を買ふのが通といふものさと、更に笑ふだらう。解らなくもない。確かに少し気張つて買つた幕の内弁当を、お行儀惡くつつくのは愉快なものだから。ただそこには最初から中身が判つてゐるといふ問題がある。お弁当の樂みは蓋を開けてあれもこれも入つてゐるぞと歓ぶのと、期待してゐたおかずが見当らないとがつかりするのが含まれてゐて、自分で買ふとその樂みが失せる。残念だなあ。

 

 上に書いた理由で、食堂車が慾しい。贅沢を求める積りはない。麦酒と葡萄酒。ハム・エッグス、ロースト・ビーフか何かのサンドウィッチ。チーズとトマトとマカロニ。ソーセイジとザワークラウト。後は煮込み料理のひとつもあれば上等といつてよく、これだけあれば一時間や二時間は、するすると過せる。卓にぼんやり坐つてゐるだけなら迷惑かも知れないが、食堂車にゐる以上は、麦酒を呑んで、お代りを呑んで、葡萄酒に移るのにあはせつつ、あれやこれやとつまむことになるから、厭な顔をされる心配はあるまい。そんなのは自分の指定席でも出來るのにと思ふひとは少からずゐると思はれて、さういふひとは家でサンドウィッチを用意したり、どこかでお弁当を買つたりするのだらう。別に文句は無い。と云ふより、食堂車が当り前の編成に繋つたたとして、その手の人びとにはそのまま、自分の席に坐つてもらへれば、食堂車が混雑する恐れは少くなる。まことに具合が宜しい。本音を云ふと、ヂーゼル機関車が引つ張る急行列車の食堂車がいいのだけれど、ヂーゼル機関車が走る区間が残つてゐるのかも知らないし、仮にあるとしても、そこまで行くに苦労しさうである。なので東海道本線で一日一往復くらゐ、走らしては呉れないだらうか。妥協的に東海道新幹線のこだま號でもいい。小田原米原間。新横浜を出てから自分の席で罐麦酒を一本か二本呑んでから、食堂車に行つて麦酒の續きで煮込み料理なりマカロニなりとサンドウィッチをやつつける。席に戻つてひと眠りしてから、また足を運んで、今度はトマトやチーズと一緒に葡萄酒を平らげれば、名古屋を過ぎるくらゐの時間になるだらう。幾ら掛かるかは知らないが、ちよいと贅沢に呑んだ程度に収まる筈である。かう云つても、そんなのは商賣にならないと旧國鐵が首を横に振るのは目に見えてゐるが、そこを別に任せるとは云へないものか。うまくゆけば令和版の阿房列車が生れると思へるのだけれど。