閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

598 充填豆腐閣下

 我が親愛なる讀者諸嬢諸氏には、わたしが莫迦ツ舌の持ち主であるのは、既にご承知の事實かと思ふ。念を押すと謙遜ではない。充填豆腐を旨いうまいと云ふくらゐだもの。

 全國豆腐連合会といふ権威ありげなウェブ・サイトの記載を頼りに、充填豆腐の製法を説明すると、豆乳を冷して凝固剤を混ぜ、容器に注入し(だから"充填"なのだな)、密閉加熱して出來上る。型に入れず、水に晒しもしないのが従來式の製法と異なるさうで、知らなかつたなあ。

 子母澤寛の本…食べものについて聞書き。好著です…で、元軍人だつたか華族様だつたかが、豆腐の味におそろしく八釜しいことを云つてゐた。勿論その当時、充填豆腐は無く、遡つて食べさせたらどんな顔になるのかと思つた。もしかすると厳しく叱責されたかも知れない。少くとも豆腐とは考へない筈で、令和に生きてゐてよかつた。

 充填豆腐は安直で廉価なのがいいとして、その他に褒めるところはあるだらうか。ちよつとしたお店で食べる豆腐が、ちやんと(厳しく云へば一応)豆腐の味がすることを思ふと、そちらの方向で話を進めるのは六づかしさうだ。但し六づかしいのは、豆腐そのままを食べる場合で、色みや食感に目を向ければ、安直廉価も含めて値うちが出る…と思はれる。

 たぬきやつこと呼ぶらしいのだが、天かすと葱ををどさどさ乗せ、削り節だの茗荷や胡瓜だのも乗せ、硝子の器に盛つてぽん酢で食べるのは中々うまい。まつたく眞夏に似合ふ。

 玄冬には温奴がある。湯豆腐のやうに温め、矢張り葱や削り節をたつぷり。藥味には生姜ともみぢおろしを使ひ、温めた醤油を垂らしてやつつけるのも、また宜しい。

 セロリーや茗荷、胡瓜、トマトなぞをざくざく刻み、うでたささみとかるく絞つた豆腐を崩し、好みのたれでもドレッシングでも梅酢でもかけ、温泉卵を乗せたサラドもいい。

 かういふ食べ方をする時、豆腐それ自体が積極的にうまいと、どうも勿体無く、この際(と云つては何だが)、充填豆腐の無個性がいい。無個性とまづいを一緒にするのは間違ひであつて、口当りや他の味を受け止めたい場合、まことに好都合ではないか。ほら、サワー類を作るのに、甲類焼酎を使ふでせう。あれなんか、そのままでは無味無臭のアルコールに過ぎないが、ソーダで割り、檸檬やグレープ・フルーツやシークァーサーを搾り込むと、廉価で嬉しい呑みものになる。充填豆腐の役割はその辺りにあるらしい。

 絹漉しを主に食べる。正確に云へば、充填豆腐はすべて絹漉しらしいのだが、木綿豆腐風の堅いやつもあつて、そちらは好まない。口当りが適はないからで、前述の閣下には、そんなのはどちらでも(まづいから)構はんよ、と鼻で笑はれるにちがひない。令和に生きてゐて矢張りよかつた。

 ところで、豆腐を木綿絹漉し充填に三分割するのは短慮な態度ではなからうか。たとへば沖縄奄美には、水気を絞つた堅い島豆腐がある。塩胡椒で苦瓜と炒めると實にうまい。これは本土式の豆腐を使ふと、まづくはなくても、味が弛んで仕舞ふ。これで麻婆豆腐を仕立てたら旨いと思ふが、どうでせうね。麻婆豆腐の専門家の意見を知りたい。焼き豆腐もある。鋤焼きに入れると旨いですな。肉豆腐と呼ぶのか、牛肉と炊合せたのもいい。いや島豆腐は焼き豆腐はと、正しい豆腐の知識をご教示くださる方もをられるだらうが、そこは(失礼ながら)どうでも宜しい。

 「何となくちがふ」

と思ふのが大事で、では何故ちがふと感じるかと云へば、食卓や酒席で見掛ける機会の多少に過ぎない。我ながらいい加減だなあ。我が親愛なる讀者諸嬢諸氏にも、きつとさういふ食べものはあると思ふのだけれど。

 豆腐料理には膨大な種類がある。まさかと思ふひとには、十八世紀の末頃、『豆腐百珍』が出版されたことを證拠に挙げたい。題名のとほり、豆腐を用ゐる料理を百種、紹介した本。續篇や餘錄まで出たし、"百珍もの"と呼ばれる流行まで生んだ。余程に好評だつたのだらう。

 当り前の指摘をしておくと、『豆腐百珍』の著者は、西洋料理…ロースト・ビーフやウィンナ・シュニッツェルやハンバーグの、名前は勿論、姿も調理法も何も知らなかつた。要するにその百種は、伝統的な手法とその応用で編み出されたことになる。大したものだと感嘆してもいい。同じ時期にドイツやアイルランドで"馬鈴薯百珍"が編めたかどうか、率直なところ怪しかつたと思ふ。当時のドイツ人やアイルランド人が料理下手だつたのではなく、あれやこれやと工夫を凝らす(そこには当然、数多くの失敗も含まれる)には、社會や経済の安定と余裕が欠かせず、日本…少くとも大都市圏にはそれがあつた。贅沢と余暇を樂めた階級の多さで云へば、江戸と大坂は同時代の世界有数の大都市だつたかも知れない。

 我われが『豆腐百珍』の著者より恵まれてゐるのは、西洋料理を知つてゐることだらう。ポトフやアクアパッツァボルシチ(ロシヤを西洋に含めていいかといふ疑念はさて措く)の"オーソドックス"に目を瞑れば、豆腐を追加しても不自然ではない。十八世紀にこの手の西洋鍋があつたら、『豆腐百珍』でも、西洋篇が編まれてゐたにちがひない。

 併し。併しである。残念なことに、かういふ話題で充填豆腐の肩身はせまい。少くとも積極的に充填豆腐を使ひますよと、そんな調理法は聞いたことがない。きつと歴史が新しいからだと思つて調べると、充填豆腐の製法はおほむね、昭和卅年代後半から四十年代中頃にかけて確立したらしい。半世紀余り…豆腐史を俯瞰すれば、誤差に収まる程度の時間しか経つてゐない。成る程これぢやあ、充填豆腐料理を見掛けないのも、無理はないよ。

 とは云ふものの、充填豆腐料理が今後も出ない、とは限らない。いづれ、本格の豆腐だと寧ろ味が纏まらない調理法が生れる期待はあつて、たださうなるには、もう半世紀くらゐの時間を掛け、失敗を繰返さねばならんとも思ふ。新工夫の調理法や食べ方が、食卓と酒席に馴染むには、どうしたつてさういふ時間が欠かせない。贅沢とか文化とかいふ言葉は、こんな時に使ふのがおそらく正しい筈だが、それは話が大きすぎると、閣下からお咜りを受けるだらうか。