閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

604 カップ酒に就て

 カップ酒と云へば、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏の大半は、うんざりした顔つきをするのではないか。ああ、あの安いのが取柄で、旨くも何ともないやつでせう。話題に上げると、詰りその程度なのねと、手厳しく云はれさうでもある。その印象の多くは、ワンカップ大関の責任…影響と云つていい。

 一合入の硝子コップに蓋をして、そのまま販賣したのはワンカップ大関を嚆矢とする。昭和卅九年だから、半世紀余り前からの製品で、お酒…日本酒史全体から見れば、ごく最近と云つていい。序でに云ふと、酒造會社としての大関は十八世紀頭の創業。ワンカップを出した時点で既に二世紀半の歴史を持つ、老舗の藏…灘の五郷にも入るほどの…であつた。

 よく賣れたさうだ。全盛の頃のわたしは少年だつたから、詳しくは解らないが、他の酒造會社に、こぞつて同じ形態での製造へと踏み切らせたと思へば、近代酒造と販賣のエポックだつたと云へるかも知れない。尤もそこには、良くも惡くも、と附け加へる必要はありさうだけれど。

 

 一ばん大きな"惡くも"は、カップ酒とお酒を最短の直線で結びつけたことかと思ふ。貴女は如何でせう、わたしはさうだつた。だから沖縄市のマーケットで、泡盛カップ酒が賣つてあるのを目にした時は、少々驚いた。水割りを硝子ではなく紙製のカップ。二百円とか、廉だつた記憶がある。幾つかの銘柄があつて、一通り試した。まづくはなかつたが、当時のわたしは、泡盛はオンザ・ロックで呑むものと決めつけてゐたので、些か物足りなさを感じたと白状しておかう。

 それから五年か十年か後、山梨に行く機会を得た。甲府驛に隣接するマーケットだか何だかに、焼き鳥を賣るお店と酒屋が隣接してゐて、焼き鳥を買つてから酒屋に入つた。罐麦酒を買ふ積りで勿論買つたのだが、山梨の酒屋だから葡萄酒も充實してゐて、そこにカップ葡萄酒を見つけた。まるき葡萄酒會社の"ぎゅっとワイン"といふやつ。赤も白もあつた。見逃すわけにはゆかない。特別急行列車の車内で、焼き鳥をつまみに呑んだ。確か今の名前は"ひょいとワイン"である。

 

 泡盛と葡萄酒のカップ酒は、どちらも一合といふ分量で共通してゐた。四分ノ一リットルくらゐ、或は罐麦酒一本くらゐの量でもいいのに…と思ふに泡盛藏もワイナリもきつと、ワンカップ大関デファクト・スタンダードと参考にしたのだな。まあ分量どうかうの前に、泡盛や葡萄酒で、カップ一ぱいの量り賣りといふ發想自体、無かつたらう。

 詰り様々諸々の酒精で"カップ入り"を用意するとしても、どうしたつてワンカップ大関の影響は避けられない。そのワンカップ大関には、どうしたつて(藏には失礼ながら)晝間から呑む駄目なひと(わたしのことではないよ)の印象がつき纏ふ。勿体無い。と云ふのは、近年のカップ酒…日本酒の…には、中々侮り難い一面があると知つたからで、念を押すと、残念ながら美味の意とは云へない…云ひにくい。

 

 ここからの話は日本酒のカップ酒に絞りますよ。

 繰返すと、侮り難いのと、旨いかどうかは別である。

 奥多摩青梅の小澤酒造といふ藏が、澤乃井銘(奥多摩湧水仕込)のカップ酒を出してゐる。精米の度合ひが低く、醸造用アルコールを添加した、所謂普通酒。多摩周辺のコンヴィニエンス・ストアで二百数十円くらゐの値段が附けてある。マーケットに卸してゐるのかどうか。

 これが普通酒と思へないほど旨い…と云へば嘘になる。まづくはないにしても、値段相応が率直な評価か。小澤酒造のお酒には色々世話になつてゐるけれど、忖度は我慢する。どうです立派な態度でせう。

 ところで小澤酒造のお酒は何種類か、試したことがある。蒼天や大辛口、本地酒。好みを別にすれば、どれも旨い。旨いお酒は面白い映画と同じで、それより綿密な区分を拒むのだと、頭の隅に入れておきたいもので…話が逸れる前に戻すと、上に挙げた銘柄は、味はひの根つこが同じ向きをしてゐる。機会を分けて呑めば知らないが、試飲するとああさうかと解る。その根つこはカップ普通酒でも同じであつて、気が附いた時は(よく考へれば当り前なのに)驚いた。更に大関會社のやうな規模でない酒藏で、合理的で化学的なお酒を、獨立して醸るのは無理に決つてゐるとも気が附いた。

 

 といふことは、小規模零細規模の藏…冷静に云へば殆どがその筈なのだが…が醸るカップ酒を呑めば、その藏の根つこの、少くとも輪郭は掴めるのではなからうか。そんなだつたら、せめて吟醸を奢らなくちやあと云はれたら、すりやあさうだよなとは思ふ。思ひはしてもわたしのお財布は残念なことに無尽藏ではないし、臆病でもあるから、口に適はなかつたらと思ふと二の足を踏む。またカップ酒なら、幾つかの銘柄を気らくに呑み競べ出來るのもいい。

 それからカップ酒には、時に莫迦ばかしいのがある。手元に残したカップで云へば、北陸新幹線の新型車輌導入の絵や高橋留美子の漫画が印刷されたのがあつて、どこの藏の何といふ銘柄かは判らない…いや本当に曖昧なんです…が、絵柄の莫迦ばかしさと値段の安さに釣られる樂みもある。勿論その辺がはつきりしたカップ酒もあるのは云ふまでもなく、はつきりしたその辺を切つ掛けに、知らない酒藏、知らない銘柄への縁が出來れば寧ろ得だし、口に適はなくても、精々何百円なら笑つて済ませられる。さう考へれば、容れ物も含めて(冗談めく絵柄も)、カップ酒といふのは、小さな藏の予習に好都合なのではないかと思はれてくる。