閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

608 あのバーの思ひ出

 某所にバーがある。おそろしく判りにくい場所にあつて、初めて訪れた時は、どこをどう歩いたものか、自分でもはつきりしなかつた。そのバーはハイボールを得意にしてゐて、我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、笑つてはならない。ヰスキィとソーダと氷を上手にブレンドするのはたいへんな技巧であつて、最初の一ぱいは驚くと云ふより寧ろ呆れて仕舞つた。

焼酎に前割りといふ技法がありますな。呑む何日か前から甕に入れ水で延ばして馴染ませる方法。その場で水割りにするより口当りがまろくなる。ああいふ感じと云へば洋酒を嗜まないひとも想像出來るだらうか。穏やかで軟らかで滑らか…最初からさういふ呑みもののやうに思へて、ぢやあおれがこれまで呑んできたハイボール、あれは果してハイボールだつたのかと疑念が浮ぶほどだつた。

 その某バーにはあと二つ自慢がある。ひとつは燻製で、ヰスキィのつまみは六づかしいといふ観念…率直に云つて今もそれは大筋で誤りではないと思ふのだが…に一石を投じる工夫は凝らしてあつた。用意するにしても買ふにしても、家で気らくに食べにくいのがこの際、魅力を増してゐて、バーを扉一枚で隔てられた異空間と見立てれば、その象徴になるのはかういふつまみである。その燻製に丁寧に作られたハイボールがあはさつて、第三の自慢が活きる。詰り葉巻。このバーはハイボール・バーと燻製バーと、シガー・バーを兼ねてゐたのだが實は初訪問の時、最後の要素をよく判つてゐなかつた。葉巻は喫つたことがなく、それで試したいと思つた。併し何を喫めばいいのか解らないので、目の前のハイボールに適ふ葉巻を頼んだ。こんな時は教はるのが一ばんいい。

 木函から取り出した葉巻の吸ひ口をぱちんと切つて、軸が長く太く頭の大きな燐寸と、長方形の灰皿を一緒に出してくれた。火を案配宜しく点けるには家庭用の徳用燐寸ではいけないし、また葉巻は喫ふのに時間が掛かるから、置いておけるくらゐの灰皿が必要なのだと説明もしてくれた。火をゆつくりまはし点けると、紙巻煙草のやうに深く吸つてはいけませんよと注意を促してもくれた。利き酒をするみたいに味はふのがいいのですといふから、きつと覚束ない恰好でその通りにしてみた。一本を喫みきるのに半時間近く掛つた。それで吹かしながらこれはうまいのだらうなと思つたのは、味覚の問題といふより心理的な事情で、有り体に云へば緊張の結果(自覚は無かつたけれども)に過ぎない。

 併し思ひ返しても、あの夜のハイボールと燻製と葉巻の組合せに不自然はまつたく感じなかつた。落ち着いて考へるとこれは凄いことで、お酒と干物と煙管の組合せを想像すれば直ぐに解るが、これだとどうしたつて煙管が邪魔になる。煙管が駄目といふ話でなく、組合せが成り立たない…成り立ちにくいと云つてゐるので、葡萄酒とハムに煙草の組合せでも同じことである。少々乱雑に、また喫煙者としては具合が惡いななと思ひつつ云ふと、酒精と紫煙はどちらも嗜好品に属しつつ共演は六づかしい。悲劇役者と喜劇役者は同じ舞台に上がらないと云つてもいい。但し喜劇的な悲劇役者や悲劇的な喜劇役者も少数ながらゐるもので、舞台の宜しきを得ればひとつの舞台が出來(ることもあ)る。さう考へるとひよつとしてあの時のハイボール…ヰスキィと葉巻は、その稀な例外であつたのだらうか。

 

 あのバーにはもう何年も、足を運んでゐない。