閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

615 利きすぎの塩

 画像は"中華風旨辛もつ煮丼"、八百五十円。"数量限定"の触れ込みに釣られて食べた。このお店は何度か足を運んでゐるから、下手を打つ心配は無い。

 さう思つて食べると、確かにまづくはなかつたけれど、感心も出來なかつたから、少し驚いた。蒟蒻や大根、人参への火の通し具合は申し分無かつたが、塩気が飛び抜けてきつかつたんである。一体このお店はおつとりした味附けが得意なのにで、珍しいこともあるものだと思つた。

 念の為に云ふと、この味附けで、小鉢に少し盛つて出されたら、わたしはきつと歓んだ。丼の種に適はないのと、まづいのとは分けて考へねばならぬ。

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 そこで、塩。

 我われのご先祖まで遡つて、おそらくは一ばん附きあひの古い調味料であらう。肉でも魚でも野菜でも、火に掛けて塩で味を附ければ、大体は食べられる。詰り最も古い調理法でもある。製塩の技術が未熟な時代…の稿は手を抜いてゐるから、製塩の技術史を調べてはゐないけれど…海水を天日で干し、或は煮詰めるのでなければ、岩塩を手に入れるとか、そんなところから始つた筈で、すりやあ時の支配階級が獨占したがつた気持ちも解る。

 さて。塩には諸々の種類がある。らしい。

 らしいと云ふのは、そこまで詳しい知識を持たないからだが、そこらのマーケットの棚を眺めるだけでも、複数の塩が並んでゐるのだから、あると云つても誤りにはなるまい。その諸々の塩は、化学的に造られたのと、さうでないのに大別されて、正確を期せば塩の豊かなちがひは、後者の受持ちかと思はれる。正しさの保證は出來ない。

 たかだか塩で、さうまで味がちがふものかね。さう思ひたくなる気持ちは解る。解るけれど、食べ…舐め較べたら、確かにちがふ。粒の大きさで口触りが異なるし、薄つすら甘みがあつたり、言葉にはしにくい何とも複雑さが感じられたりもして、天然塩と呼べばいいのか、その味はひの根つこは、ひとの手が入れられないのだなと思ふ。

 さういふ塩は肴になることがある。使ひこんだ桝の角に乗せ、或は小指の先にちよいとつけて、舐めながら呑む。戯画的な光景だなあと思ふでせう。その通りである。ではあるのだが、どうかすると、たいへんに旨い(と思へる)時がある。ただわたしは肴が無いと呑めないたちだから、何をどうすればさうなるのか、さつぱり解らない。更に云へば、お酒以外に"塩で呑める"酒精が浮ばないのも不思議で、これが山葵なら、日本の固有種だからまだ納得はゆく。塩は云はば必須ゆゑ、ありふれてゐるのだから、適はない道理は無い。残念ながら塩の利きすぎた中華風もつ煮丼を食べながら、紹興酒があればいいのにと思つた。