記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。
以前に『座頭市物語』で取上げてゐなかつたか、と思ふひとがゐたら、そのひとはこの手帖の愛讀者であらう。但し座頭市映画の愛好家ではないとも思ふ。"物語"の就かない座頭市は昭和六十四年に完成し、平成元年に公開された。勝新太郎の座頭市映画としては最後の一本になる。
わたしは勝新太郎が大好きなので、思ひ切り褒めたい。褒めたいのだが、正直に云つて褒めにくい。勝は文句なく恰好いいし、樋口可南子は艶つぽいし、奥村雄大と内田裕也と陣内孝則の屑つぷりだつていいのだけれど、何と云へばいいのか、かう、尻の坐りが宜しくないのだな。
昔の座頭市映画の要素は全部、入つてゐる。
博奕場にいかさま。
可憐な少女。
やくざと権力者の非道。
そして勿論、派手な斬りあひ。
それらのひとつひとつは、美事と手を拍ち、膝を叩きたくもなる。居酒屋だか旅篭だかでの唄や、三味線を爪弾く座頭ノ市の姿は大したものだし、殺陣の凄みはもしかすると、これ以前の座頭市映画を凌いでもゐるのだが、一本の映画として観るに、どうも纏りに欠けた感じがする。
もうひとつ、殺陣の場面が変に生々しいからこまる。座頭市映画の剣戟は、時代劇の様式に則つてゐるからいいのに、血を垂れ流したり、頚や腕を斬り飛ばしたり、實録やくざ映画のやうな見せ方を入れられると、どこに目をやればいいのか、戸惑つて仕舞ふ。モノ・クロームなら印象は丸で異なつたらう。リアリズムは時に映画の邪魔をする。
仄聞したところ、この『座頭市』には、脚本の決定稿が無く、大小様々の修正を施しつつ、撮影したといふ。詰り涼やかな眼と通つた鼻筋と紅の唇をばらばらに描くやうなものである。これで美男画を完成させるのは六づかしからう。
などと云ひつつも、わたしはこの映画を樂んだ。
何故と云ふに、そこには勝新太郎の輪郭が墨痕黑々とあつて、美男とは呼べなくても確かにその姿は恰好いい。矢張りあのひとは凄い映画人だつた。『座頭市物語』と三本、座頭市映画を観てから、じつくりと観てもらひたい。