閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

632 数字の示すもの

 オムレツを焼くのは随分と六づかしいといふ。ここで云ふのは西洋風のオムレツ。映像で見ると、くるくるとんとん、なんてこともなささうにフライパンを操つてゐるが、くるくるとんとん操るだけで、溶き卵がアーモンドのやうに纏まるのだから、容易い技術の筈がない。わたしが試すと"分離し損ねた炒り卵"に必ずなつた。だからもう何年も時分で作らうと思つてゐない。

 要するに溶いた卵をバタでやはらかく焼く…といふおそろしく単純な調理法で出來るのがオムレツであつて、これだけ単純ならば

 「たれが作つても同じ」

仕上りになる方が寧ろ不思議といふものだ。料理人が樂らくと感じさせる手捌きでくるくるとんとん、フライパンを振るのが惡い…いやそれは流石に失礼であるか。

 ならば"火を一ぺんに通す"技法(の見た目)が、如何にも簡単に感じられるのが惡いと云ひませうか。

 さう云つて炒飯を聯想した。焼き飯ではありませんよ。あつちは休日の午后に親が作つてくれるひと皿を指す。ハムの切れはしや(魚肉)ソーセイジや竹輪が入つたやつ。手際の宜しきを得ないと、焼き飯といふより、ごはんの油炒めになつて仕舞ふが、それも含めて旨かつた。わたしが少年の頃は、ウスター・ソースを垂らして頬張つたなあ。

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 勿論プロフェッショナル、詰り自分の料理でお金をもらふ料理人に、"ごはんの油炒め"を作られるのはこまる。こんなことを云ふと

 「では炒飯とはなんだ」

と、どこかの漫画で目にした科白が聞こえてきさうだが、ここでは踏み込まない。大まかに"ごはんと卵をぱらつと炒めた"料理くらゐに考へておくとして、この"ぱらつと"が六づかしい。らしい。その為の技法にも(矛盾する)諸説があつて、いちいち例を挙げるのは面倒だから省略するけれど、一見簡潔な調理法がその諸説の苗床になつてゐると想像しても、大間違ひとは云はれまい。

 わたしですか。自分では作らない。焼き飯なら兎も角、炒飯を食べたいと思つたら躊躇なく食べに行く。オムレツと同じく、簡潔ゆゑ技倆の求められる食べものは、プロフェッショナルに任せるのが最良の撰択だもの…さう考へて食べたのが画像の炒飯、ならば、多少は恰好いいと思ふのだが、残念ながら事は都合よく進まない。不意に品書きの"五目炒飯"が目に入つたから、その気になつたのである。

 お椀を伏せた姿で出なかつたのは減点。

 匙が金属製であるところも矢張り減点。

 併し醤油の炒まつた匂ひはまことによろしい。更に食べるとうまい。それで形は気にならなくなつた。金属の匙の口当りは感心出來なかつたが、不愉快には到らなかつたから、文句は云はないことにする。

 食べながら目を動かした。品書きには五目炒飯とあつたから、實際に五目…五種類の具を扱つてゐるのか知らと思つたんである。目立つたのは海老(小さいのが二尾)、それから炒り卵と叉焼。後は葱で、四目ぢやあないかと云ひたくなつたが、その葱は青白が使はれてゐた。

 (成る程ここを峻別して五目なのだ)

納得しつつ、匙を動かしつつ、ところで五目炒飯の五目は五種類の具を指すのだらうかと思つた。我が國の八百萬の神さまの八百萬は、八百萬柱といふ具体的な数でなく、途轍もなく大勢を意味するでせう。それと近似で、五目とは"玉子だけではない"ことを示す一種の記号と考へられまいか。さう云へば八寳菜の八寳は八種の具…野菜の意味なのか、多くの野菜をたつぷり使つてゐますよといふ意味なのか、と考へたところで、五目炒飯のお皿が空になつた。