閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

638 横長のお皿

 近年も日本人の箱庭好みといふ見立てはあるのだらうか。たとへば盆栽、たとへば懐石料理。或は袖珍本。もつと云へば軽自動車だつて、その括りに入りさうな気がする。我われ(のご先祖)はどうやら、巨きさに値うちを見出だすことが少いか少かつたらしい。

 では何故さうなのかと不思議になつてきて、勿論わたし程度の頭では解らない。それで裏附けを持たないままの想像になるのだが、佛教が原因…訂正、遠因ではなからうか。

 簡単におさらひすると、我が國に佛教が伝はつたのは六世紀の半ば頃。日本の西半分が概ね、ひとつの政権下に纏まりつつあつた時期と考へればいいでせう。この頃、公式に経典だの佛像だのがやつてきたらしい。その前から渡來人が勝手に信仰してゐた可能性はある。

 随分と衝撃的だつたらしい。第一には経典の論理性。当時の日本語には無かつた緻密さは、数少い知識階級を驚倒させたにちがひない。もうひとつの緻密は佛像の造形で、貴人に

 「異國ノ神。綺羅キラシ」

と云はしめたといふ。こちらの衝撃の方が、大きかつたでせうね。ぱつと見て、直ぐに理解出來る。我われの遠いご先祖にとつて佛教は、論理と造形の両面で、兎にも角にも煌びやかであつたらう。それで佛教を取り入れたい派閥…崇佛(蘇我氏)と、旧來の信仰を護らうとする派閥…排佛(物部氏)が、烈しく対立した。實際のところは、信仰を背景にした権力争ひだつたけれど。

 腥い話には目を瞑つて結果を見ると、前者が勝つた。尤も勝つたのは、"綺羅きらしい異國の神"の方が、効能に期待を持てると考へられたからで、何とも即物的だなあと呆れたくなるし、倭國の野蛮ぶりには息をつきたくもなる。

 まあ取り入れると云つたつて、有り体な話は輸入である。何せ哲學的な思考の手法も、精密な像の造り方も、ましてそれらを飾る建築の技法も知らないのだから、實物をぢかに手に入れるしかなかつた。仮に真似をしたいと思つても、貧弱な伎倆では…六世紀頃の日本で作れたのは埴輪が精々であつた…無理が過ぎたらうし、大体自力で何とかするのに必要な金が無かつた。

 ここから話を想像…寧ろ妄想に戻すと、倭人のたれかが

 「佛像を實物大で模倣するのは無理だ」

 「が。小さくして、抜ける手を抜けば、誤魔化しは出來さうな気がする」

と考へたのではなからうか。繰返すと当時の佛教には土着の神々を凌ぐ効能(身も蓋もなく云ふと祟り除け)を期待されてゐたから、輸入佛像で賄へる以上の需要はあつただらう。彫像に限らず、絵画の技法や附随する各種の道具の源流は、その辺りに(も)ありさうで…必要に迫られたと考へるのが自然でせうな。当時の日本では商賣が成り立つほど、経済は熟してゐなかつたもの。

 といふ妄想が多少でも正しければ、日本の美術趣味は、ごく早い時期から、"小さく纏める方向"に一歩を踏み出し…思ひきつて原体験だつたと、妄想も踏み出したくなる。實際、平城の大寺と云つても、所謂"雄大な建築"ではない。日本史を俯瞰して例外と呼べるのは豊太閤の大坂城くらゐだが、それは当時の日本人の嗜好といふより、尾張の成上り個人の性向と見るのが正しからう。

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 要は(と無理に話を續けると)、霞の彼方で生れただらう"小さく纏める"方向性に技術が進んだ結果が、現代に残る箱庭好みに繋つてゐる。と考へたかつた。いや順序は逆さかも知れない。逆さといふのは(ここから話は一ぺんに小さくなる)お酒の傍に肴が用意された様を見るのがわたしの幸せだからで、かういふ場合の肴はちんまり纏まつてゐる方がいい。

 いつだつたか、某所の立呑屋での夜。わたしの好きな呑み屋の例に洩れず、そこもつまみが旨い。カウンタに大振りの鉢を幾つか置いて、煮物だの和へ物だのを入れてある。その煮物や和へ物がつき出しになる。その夜は蓮の金平に玉子焼き、それから燻りがつこが横長のお皿で用意された。燻りがつこにはクリーム・チーズが添へられ、カウンタ内のお姐さんが笑顔でいはく

 「お酒に適ふ組合せ。ね」

成る程このお店は諸々の冷酒が揃つてゐる。それに似合ふつまみ改め肴が充實するのは当然であらう。

 さてそこで。蓮の金平と玉子焼きと燻りがつこが、横長のお皿に少しづつ乗せられてゐる点に着目したい。どれか一品が多めに出され、或は別々の小鉢や小皿に盛つてあれば、旨いまづいなら旨いにせよ、嬉しがれる部分は減ると思ふ。そんなのは微妙な気分のちがひとも云へば云へるだらうが、その微妙なちがひが、お酒の味はひには大きく影響する。

 ぢやあ何故影響するのかといふ疑念が浮ぶのは当然であつて、それは佛教伝來に端を發する(だらう)美術趣味の遺伝子がちらりと顔を覗かせた結果ではなからうか。出された三種はまことに旨かつたし(お姐さんは嘘を云はなかつた!)、それらがわたしの目を喜ばせたのは、並び具合が藥師三尊のやうに思へたから…と云へば流石に

 「すりやあ、ちと大袈裟に過ぎまいか」

苦笑ひされるだらうが、譬喩と誇張は文學の基本的な技法である。勘弁してもらひたい。いや待てよ。腹の奥底のどこかでもしかすると、無意識にも宗教的な感興を覚えた可能性も零ではないだらうか。さうなるとあの横長のお皿は、おそろしく面倒な過程を経た蓮華座と見立てられなくもない。眞面目な僧侶に咜られる不安は残るけれども、妄想ですからねと最後に念を押しておく。