閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

642 無念の茄子

 茄子を食べるようになつたのはここ数年である。要するに食べず嫌ひだつた。今もお漬ものは獨特の歯触りが駄目で、炒めたり焼いたりしたのでないと、旨いとは思へない。

 最初に旨いと感じたのは、今はもうなくなつた定食屋で食べた"茄子の肉味噌炒め定食"だつたと思ふ。正直に云ふとこの時茄子はどうでもよく、肉味噌なら旨からうと考へて註文したのだが、食べてみると肉味噌と茄子の組合せが佳く、上手いことをするものだと感心させられた。何を今さらと笑はれるのは仕方がないとして、元々茄子を食べる習慣が無かつた分は差引きしてもらひたい。

 それからといふもの、品書きに茄子の料理を見つけると、註文しなくては落ちつかない…となつたら、茄子農家の人びとも喜んでくれるだらうが、残念ながら話はさう簡単に収まらない。食べなかつた期間の長さを考へれば、一ぺん、旨い料理を食べたくらゐで

 「けふからおれは茄子を贔屓にする」

とは、なれないよ。勿論ぽつぽつと揚げ浸しだの焼き茄子だのをつまむ機会はあつた。但しそれは何度か通つて、そこの料理…つまみ乃至肴だつたら間違ひないと確信出來てからの註文であつた。なんて臆病なと云はれるだらうか。わたしとしては慎重な態度なのだと主張したい。

 いつだつたか、どうせ少し暑い夜に決つてゐるが、"加賀茄子と甘唐の煮浸し"と品書きにはあつた。これが"茄子と甘唐"だつたら気にならなかつたらう。何がどうかはよく判らないにせよ、加賀の冠がつくのだ。加賀野菜は知られてもゐるし、きつと旨いにちがひない。さう考へた。我ながらいい加減である。いい加減ではあるが、知らないんだもの、旨さうかどうかの目安を冠の有無に求めたつて止む事を得ない…と云つたら、開き直りにもほどがあると咜られるだらうか。

 「實は茄子、あんまり得手ではないんですがね」

 「ぢやあ甘唐だけにしませうか」

 「それはそれで、こまりますなあ」

何といふか、間の抜けた會話を挟んで、小鉢に盛られた"加賀茄子と甘唐の煮浸し"が出た。何を呑んでゐたか知ら。[一白水成]だつた気もするが、はつきりしない。早速つまむと甘唐が旨いのは勿論、茄子も旨い。いいものだと目をつけた自分を褒めた。それで甘唐と茄子を一緒に食べるともつと宜しい。感心した。この感心が加賀茄子そのものの味にだつたか、その味を活かすべく料つたひとの腕前ゆゑだつたか、我ながら判然しない。

 何しろ加賀茄子だもの、旨いに決つてらあ。

 加賀茄子が旨くたつて下手な料理は駄目さ。

 どちらも正しいし、両方に与しても矛盾はせず、味が変るわけでもない。なので深く考へるのは止しにした。それですつかり満足はしたのはいいがひとつ、困つたことがあるのに気が附いた。冒頭に書いた肉味噌炒めにしても、この煮浸しにしても、要するにちやんとした茄子をちやんと料つたから旨いので(いつだつたか、北杜市蕎麦屋で食べた、味噌を添へた焼き茄子も旨かつた)、さうでない茄子料理はきつとまづい…が惡ければ、口に適ふまい。であれば日常の食事に茄子が登場する希望を持つのは随分な困難にちがひない。それで貧相な気分になりはしないにせよ、常食のつまみが増える期待を持てないのは、残念と云ふ外にない。

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