閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

650 曖昧映画館~ロボコップ

 記憶に残る映画を記憶のまま、曖昧に書く。

 

 ロボットの警察官を作らう。

 新鮮なひとの死体を部品にして。

 といふ頭のねぢが何本か抜け落ちてゐないと出ないだらう發想で撮られた莫迦映画。わたしが云ふ莫迦映画だもの、褒め言葉なのは念を押すまでもない。

 

 莫迦映画になつた第一の理由は勿論、監督のポール・バーホーベンである。このひとは本当に当り外れの落差が烈しいのだが、特徴的なのは観るひとによつて、その当り外れの評価が丸で異なる。わたしの信頼する映画好きの女性は(ふたりも!)『ショーガール』を絶讚してゐるし、わたしも『トータル・リコール』は大好きな…但し"いい映画"とは思はないが…一本で、かう書くと手を拍つてよろこぶひとと、眉間に麦酒を灌げるくらゐ皺を寄せるひとと、ばつさり割れるにちがひない。

 第二の理由には矢張り主役(と云つていいのか知ら)のアレックス・マーフィを演じたピーター・ウェラーを挙げねばならない。序盤で腕を吹き飛ばされた揚げ句に殺され、後はクライマックスまでは、事實上スーツ・アクターだつた(ロボコップのスーツを着て動けたのはかれだけだつたらしい)のだもの。俳優ピーター・ウェラーはどこにゐるのだとうんざりした瞬間が、瞬間の連續だつたとしても、かれを責める気にはなれないよ。

 

 併し第三の、そして最も大きな理由は、全篇の惡党クラレンス・ボディッカーを受け持つたカートウッド・スミスだと云つて、異論は少いのではなからうか。クラレンスは徹頭徹尾、屑の犯罪者で、但し人間である。その屑の犯罪者が、無い知恵を絞つて、ロボコップに立ち向ふ。ただの人間が脅威的な力を持つ相手と戰ふ構図だけを見れば、これは『プレデター』と同じである。尤もかれがマーフィを殺した結果、ロボコップが完成したといふ事情が描かれてゐるから、同情はしなくて済むし、仮にロボコップが別の事情で完成した筋立てであつても、ああまで鮮やかに屑つぷりを披露してくれれば、安心して惡罵を投げつけられる。

 

(括弧書きで云ふ。そのクラレンスといふ強烈な惡党をほぼ完璧に演じたのは、俳優カートウッドにとつて、幸運だつたのだらうか)

 

 もうひとつ。脚本の惡趣味を忘れてはなるまい。

 ロボコップには行動を規制するプログラムが組み込まれてゐる。"公共への奉仕"と"弱者の保護"、"法の遵守"がそれで、身も蓋もなく云へば、アジーモフの有名なロボット三原則の(いい加減な)摸倣である。それはいい。大事なのは隠されてゐた第四の規制で、ロボコップはその所為で一度ひどい目にあふ。そして第四の規制をどうにかしなければ、クラレンスの後ろにゐる黑幕に手を出せない。クライマックスでその規制は實に意外に、實にあつさりと解除されるのだが、その莫迦ばかしさときたら、まつたくバーホーベン好みの脚本だなあと、苦笑ひを浮べる外に無い。わたしとしては具体的にかうだと云ひたいし、書いたところで咜られる心配はなからうとも思ふのだが、ここでは口を噤む。アンチ・クライマックスとはかういふことなのだ。