閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

653 伝統にも義理を立てて

 この稿を書き出した今、陰暦では既に立秋から半月くらゐ過ぎてゐるから、お暑う御坐いますなと云つていいのかどうか、残暑お見舞ひとでも云ふのか知ら。尤も本來ならこの時期は、頬を撫でた風が涼やかだねえとか、池に浮んだ月の蔭が秋のやうだつたよとか、そんな話題が相応しい。何故だと訊かないでもらひたい。それが本邦文學の伝統なんである。

 

 併し暑いものは暑いのだと云ひたいし、ぐつと冷した麦酒を引つ掛けて、おくびのひとつも洩らしたいよ。

 

 とぼやきたくなく気持ちは解る。解るといふより、わたしにもその気分は濃厚にある。ちよつとした用事でコンビニエンス・ストアに行くと、必ずホット・スナックとか称した唐揚げやらコロッケやらが目に入る。焼き鳥や餃子を扱ふ店もあつて、うつかり罐麦酒と一緒に買ひさうになる。詰り配置の妙なのだが、裏返しの迷惑でもあるね、ああいふのは。

 

 ところで。暑い時期、ことに晝に呑む麦酒は、文學の伝統に従つて譬へれば、山奥の清水が喉を通り落ちるやうな涼やかさ軽やかさが好もしいと思ふ。三ツ矢サイダーペプシ・コーラの気らくさと云つてもいい。慌てて念を押すと、三ツ矢サイダーペプシ・コーラなら、晝間でも平気だよと云はれてもこまる。こちらは麦酒を引つ掛けたいんだもの。

 更にところで。本邦の麦酒にはどうも清水の爽やかを聯想させる味はひが少い、気がする。責めるのではないですよ。時節時間つまみ次第で、キリンやサッポロが有り難く嬉しく感じることは珍しくない。この稿で云ふのは夏…残暑の晝麦酒についてであつて、目立つ銘柄だとスーパードライくらゐしか似合ひが思ひ浮ばない。いいですよ、あれは。熱いシャワーを浴びてから呑むと特にうまい。

 

 ここまで書いてから、待てよ我われ…いやわたしにはオリオン・ビールがあるぢやあないか、と気が附いた。

 それで随分と前の夏の或日、奥多摩で蕎麦を啜つたのを思ひ出した。黑く太い歯触りのがつしりした音威子府蕎麦。うまいものだつたと記憶してゐる。その時に呑んだのがオリオン・ビールで、それも名護工場で詰めたやつだつた。

 「北海道の蕎麦と沖縄の麦酒を、本州の眞ン中であはせ樂んでゐるのだな」

と考へて、妙に愉快な心持ちになつた。林を抜ける風の快よさに、冗談の幅が広がつてゐたのかと、今にして思ふ。

 

 そのオリオン・ビールの軽やかさはちよつと不思議に感じることがある。沖縄の気候や麦酒史の特異さ…米國が及ぼした影響はきつと無視出來まい…が、あの味はひの背景であり基でもあると思へば、内地の麦酒と異なつてゐて不思議の感に打たれるのも不思議ではない。

 かういふ麦酒は意外につまみを撰ぶ。ハーフ・パイントのギネスにフィッシュ・アンド・チップスが欠けると落ち着かないでせう、あれに似てゐる。那覇でも古座でも、現地の呑み屋に足を運ぶのが最良なのは云ふまでもないとして、一ぱいのオリオン・ビールの為に飛行機代を捻出出來るほど、わたしの財布は分厚くない、残念だなあ。

 

 そこで沖縄めしを食べさせる呑み屋を探すことになつて、幸ひ出歩く範囲に何軒かあるのを知つてゐる。そこに潜り込んで、オリオンの中ジョッキ(壜でもかまはない)と一緒に何を註文するのが望ましいだらう。

 種々のちやんぷるー…だと、沖縄式の混ぜごはんが先に慾しくなる。島辣韮を気取つてもいいが(確かにうまい)、これなら寧ろ泡盛が呑みたくなる。みみがーやてぃびちーも矢張り泡盛向けのつまみで、いや我が親愛なる讀者諸嬢諸氏よ、安心してもらひたい。我われにはポーク玉子がある。

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 このうまい食べものについては、以前に[したたかポーク]や[複雑でも煩雑でもない分]で取上げてゐるから、詳しくは触れない。アメリカのポーク・ランチョン・ミート罐とハインツのケチャップで完成するのが要点だと云へば、それで麦酒…訂正、オリオンに似合はない道理は無いと、直ちに解つてもらへると思ふ。じゆーしー(沖縄式の炊き込みごはん)や汁椀で出される沖縄そばと一緒に、定食でやつつけるのもいいけれど。

 

(さういへば沖縄のコンビニエンス・ストアには、"おにサンド"…今で云ふ"おにぎらず"か…といふのがあつた。幾つかの種類の中に、ポーク玉子もあつて、二百円くらゐだつたが、何しろ沖縄のコンビニエンス・ストアで賣つてゐたから、食べ応へのある大きさだつた。東京で賣つてゐるかは知らないが、學生の人気は得られさうに思へる。以上余談)

 

 目の前には焼きたてのポーク玉子と、水滴の浮いたオリオンのジョッキ(または壜)がある。ポーク玉子はポークと玉子とハインツを別々にせず、ひとまとまりに食べるのがこつである。その方がうまい。それで口中のポークのひつこいのと玉子の穏やかなところ、ハインツの濃厚とあはすには、矢張りオリオンが最良の撰択だとも解る。

 さて。オリオンをやつつけ、ポーク玉子を平らげたら、おくびのひとつも洩らさう。後日、あのオリオンは晝間の暑さを拭ふ夜風のやうだつたなあ、と思ひ出せば、本邦文學の伝統にも義理が立つ。